六
土屋さんは、カウンターから体を起こすと、大笑いを天井へ突き刺した。「いいね、いいね」と繰り返している。
となりに目をやれば、本日二度目となる苦虫を噛み潰し、頭を抱えていた。
どうやら僕は、地雷を踏んでしまったらしい。
できることなら、このあとは当たらず障らず、静かにお酒を飲んでいようと思ったのに、土屋さんがわざわざ解説してくれる。ほじくり返してくれる。
「そっか、そっか。逢坂センセは、いつでもどこでもサイテー人間か。渡辺くん。どこがどう最低なのか、ちょっと詳しく聞かせてくれる?」
「マスター」
新しく入ってきたお客さんが、そう土屋さんを呼んで、カウンター席へついた。
常連さんだったのか、土屋さんは僕たちに「悪い」と断って、そっちへつきっきりになった。
ある意味、二人きりとなる。恐る恐る、僕はとなりを見た。
逢坂先生はカウンターに肘をついて、二杯目のマティーニを傾けながら、こっちへじろりと視線を送る。
「お前さ、俺のいつかのフォローを仇で返す気なんだな。……ドSか」
キャバクラでのことを引き合いに出して、独り言のように逢坂先生は呟いた。
僕はぐうの音も出ず、ただただ冷や汗をかいて、その場に縮こまっていた。
「さてさて。次はどうしましょう」
と、土屋さんが僕らの前へ戻ってきた。
その声で、手放しかけていた魂を引き戻す。僕は気を取り直すように背を正した。
空のタンブラーが下げられ、どうしようかなと、僕はきょろきょろした。
逢坂先生が、土屋さんに「カルーアミルク」というカクテルを注文した。
やがて出てきたのは、ロックグラスに注がれた黒と白が二層をなしている飲みもの。下の黒は、コーヒーを薄めたような色をしている。
一口飲んで、今度はその甘さにびっくりした。さっきのカマアイナが爽やかな甘さなら、こっちはまとわりつくような感じだ。そのあとに、アルコールがしっかりやってくる。
カマアイナもだけど、相当キケンな飲みものだ。
グラスを置いて僕が横目で見ると、逢坂先生はナッツを口へ放って、どうだと言うように眉毛を動かした。
どうだと訊かれても、おいしいとしか返せない。絶妙なチョイスに閉口もする。
……これって、どっちかというと、女の子に勧めるコースなんじゃないかな。
合点もいかず、首を傾げたところで、急に一回目の酔いがきた。カマアイナが、いまきた。
逢坂先生と土屋さんが話にめちゃくちゃ花を咲かせていた。このシックなバーに似つかわしくない豪快な笑いが起こる。
もう一人のバーテンさんはコップを拭きながら苦笑している。
なにを話しているのか、僕には読めないことばかりだったけど、いちいち割って入るのもヤボだと思って、カルーアミルクを飲みながらただ相槌を打っていた。
僕にだって、それなりに友だちはいる。でも、なんていうんだろう。ああいうふうに、つうかあな感じはない。
たまに一緒に出かけても、どこか遠慮が抜けなくて、気がつくと、学生の延長線ではなくなっていた。教師になってからは、ますます遠退いているし。
改めて考えてみると、僕はかなりザンネンな人付き合いをしているのかもしれない。
なんでかわからないけど、変に悲しくなってきちゃって、二杯目に入ったカルーアミルクの白から、昼間の映画を思い出した。
北の大地が舞台の映画だ。クライマックスには、さまざまな思いを抱えた主人公が冷たい海へ身を投げるんだ。
全編に渡って寒そうな景色だったと思い出し、こないだレンタルした南極物語のことがふと浮かんだ。犬つながりで、子どものときに観た忠犬ハチ公まで辿り着く。
鼻の奥が一気に熱くなった。つんとなる。ずずっと鼻をすすったら、不審げな逢坂先生の声が聞こえた。
「渡辺?」
「……ん」
「おま、泣いてんのかよ」
思いっきり引いている。
僕は酔いのせいもあって、涙を止めることができず、そのまんまの顔で逢坂先生を見た。
「なんだ。まだ感動冷めやらぬか」
「逢坂先生は、南極物語を観たことがありますか?」
は? という目をしたあと、首を動かしながら逢坂先生は返す。
「観たことはねえけど、知ってはいる」
僕は、土屋さんも見上げた。
「観たことありますか?」
「俺? うん、まあ、一回は観たかな」
「あれ、感動しません?」
カルーアミルクを飲み干し、僕はおかわりをお願いした。
土屋さんは、感動はしたけどねえ、と返しながら、逢坂先生をちらっと見る。
「ん? なんですか」
「……渡辺。お前、大丈夫か」
「なにがです?」
「なにがって……。ま、いいや」
逢坂先生が手を振った。土屋さんに、目配せまでしている。
それを受け、土屋さんはシャカシャカし始めた。
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