NG
もりひろ
前編
こまい熱血漢
一
高校教師になってから二回目の夏休みが、もうすぐやってくる。そんな六月下旬。
職員室へ戻ろうとしていた僕は、渡り廊下の途中で呼び止められた。
「翼(つばさ)ちゃーん!」
振り返ると、僕が副担任をしているクラス、しかもさっきまで授業を行っていたクラスの級長が血相を変えて走ってきた。
「どうした」
「ケンカっ、始まってっ」
「ケンカ?」
と聞き返しながら、僕はもう走り出していた。
またあの二人か。
級長と一緒に教室へ入ると、案の定、クラスの問題児二人が胸ぐらを掴み合っていた。
まさしく一触即発のとき。僕は二人の名前を叫んで、あいだに入った。
しかし悲しいかな。
ここの生徒はとにかくでかくて、力の加減てものを知らない。
僕はあいだに入ろうとして、うるせえと怒鳴った二人に同時に突き飛ばされた。その拍子に、机と椅子のあいだに背中からダイブする。
二年目に入って、この職にも、生徒は男子のみという環境にも慣れたかなと思ってみても、やはりまだまだだなと感じる。とくにこういう場面に遭遇したときは。
少し調子に乗っていた自分を叱咤しながら立ち上がり、もみ合いに発展している二人を止めようとした。
「翼ちゃんっ」
「血が!」
だれかにそう言われ、わずかな痛みも感じ、僕は自分の手を見下ろした。
甲から床へ、ポタポタと血が落ちている。
「こらぁ、お前ら!」
そこへ、担任である佐々木先生の低い怒声が教室に響く。
ああ、よかった。これで収まる。
なんて、ちょっと情けないことを思いながら、僕は手の甲を押さえた。
痛みはかすかなのに出血はひどい。
「渡辺先生!」
「あ、すみません」
「おい、だれかティッシュ持ってないか」
佐々木先生は、どこからか差し出されたティッシュで素早く僕の手を押さえると、上へと持ち上げた。
「お前ら、そこ掃除しとけ。あとそこの二人、職員室へ来い」
それから佐々木先生は、保健室へ行くようにと僕に言った。
流血の後始末をしてくれている生徒に「ごめんね」と声をかけ、僕は教室を出た。
歩きながら思う。
あの鶴の一声にはかなわない。
少し肩を落として、僕は保健室の戸を開けた。
出血が多かったわりに大した傷じゃなく、消毒とガーゼで手当ては終わった。
ありがとうございましたと養護教諭の先生に一礼して、保健室を出ようとしたとき、ベッドにだれかが寝ているのに気がついた。
見覚えのある茶色のサンダルが脱ぎ捨てられてある。
声をかけようかどうするか迷って、僕は結局、なにも言わずに保健室を出た。
向こうは大学院出で三年先輩だし。まず、本当に具合が悪いのかもしれないし。
けど、いままでに何回か保健室で寝ているところに遭遇して、そのあとしんどそうにしているのを見たことがない。
大概けろっとしている。横になったからこそけろっとなったのかもしれないけど。
職員室へ入ると、ちょうどあの二人が佐々木先生のお小言を終えて教室に戻るところだった。
佐々木先生に釘をさされたからか、すみませんでしたと僕にも頭を下げる。大したことなかったからと笑って済ませ、僕は自分のデスクについた。
はあと、いの一番にため息が出た。
次の授業の準備をしながらあっと思い出し、となりのデスクへ目をやれば、やはり主は不在だった。
「翼ちゃん、またなんかあったみたいだね」
化学担当の根津(ねづ)先生が、カップを手にして自分のデスクへ戻ってきた。僕の斜め前のデスクだ。つまり、となりのデスクの前である。
「お疲れさまです」
「おつー。あ、大丈夫?」
根津先生は、フレームレスの眼鏡を指で押し上げてから僕のケガを見つけ、そこを顎でしゃくった。
「はい。大丈夫です」
「いつも元気いいから困るねえ。あいつらは」
「ありすぎですよ、ほんと」
僕は苦笑して、またとなりのデスクに目をやった。
片づけが苦手なのか、さまざまな資料やプリント、生徒から没収したエロ本までもが散乱している。きょうはまだ見れるほうだけど、数学準備室へ置くべき大物まで現れた日には、更なるカオス空間となる。
しかし、見かねて片づけようものならば、舌打ちとともになじられる。
いつもボサボサの頭は、黒ではなく茶色に染まっている。体育教師でもないのにジャージを愛用していて、ダサい系の茶色いサンダルを引きずるようにして歩く。それでも眼鏡だけはインテリジェントな雰囲気を装わせている。
インテリな部類に入るはずなんだけど、根津先生ともども、体育教師である佐々木先生より体格がいい。
僕のとなりの主、数学の逢坂(おうさか)先生は、一年間もデスクを並べた仲なのに、未だに掴みどころがない人だ。
「あの、根津先生」
デスクから身を乗り出すようにして僕は小声で話しかけた。
「逢坂先生は──」
「ああ、継臣(つぐおみ)ね」
根津先生も小声になる。
根津先生が逢坂先生を名前で呼ぶのは、高校の同級生だからだ。
「あれ、翼ちゃん。保健室行ったんでしょ。いなかった?」
「いました。だから、なんであそこにいるのかって」
「頭痛が痛いらしいよ」
「は? ……頭痛が痛いってそれ、二重表現じゃないですか」
「うん。相当痛いってことを言いたかったんだろうね。やつは」
「でもそれは──」
生徒を差し置いてベッドを占領していい理由にはならない。
と言おうとしたとき、一人の生徒が職員室へ飛び込んできて、僕のデスク脇に立った。
急いで来たのか息を切らしつつ、逢坂先生のデスクへ視線を投げている。
「あっちゃん、翼ちゃん。逢坂は?」
あっちゃんこと根津先生が答えてくれるだろうと僕は思っていたら、首をすぼめて「知らない」を示した。
彼は当然、次に僕を見る。なにやら縋るような目をしている。
「あ……。い、一服中かな」
保健室で寝ているとはさすがにここでは言いにくい。
僕の言葉を聞いた途端、彼は大げさに肩を落とした。
だから、なにかあれば聞くよと言ってみたけど、あっさりと首を横に振られた。
「逢坂にしかわからないことだから」
ほんと肝心なときにいねえ。
悪態に聞こえて、頼りにしているからこそ出たような呟き。
彼が去って行ったあと、僕の口からはまたため息がこぼれた。
なにげにああいうのも傷つくんだよな。
生徒の言葉に一喜一憂してても仕方ないんだけど。さっきもあんなことがあったから、なおのことナーバスになっている。
僕は、椅子の背もたれを鳴らしながら伸びをして、あーあと口にしてみる。
それからとなりのデスクを横目で見た。
かように逢坂先生は、僕たち教師からはただのだらしない変人のように思えても、生徒には絶大な人気と信頼のある人なのだ。
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