Craziness

「……はは、信じられないな。お前は一体何を言っているんだ? ここから出られない? そんなの、質の悪い冗談じゃないか。」


 俺は、たった今告げられた事実から目を逸らそうとする一心で、リンダに反論していた。

 気が付けば、ロビーは先程までの耳が痛いほどの喧騒が嘘の様に静まり返っている。誰かが唾を飲み込む音ですら、はっきりと聞こえてしまいそうなほどに。

 それに気づき、更に恐ろしくなってきた俺は、リンダを問い詰めようと迫った。

 しかし、俺が動き出す前に、リンダは再び口を開く。


「……私も、もう既にここに閉じ込められた身。もう、何をしても逃げ出せない。唯一、この監獄の扉を開く方法はあるけど、そんなの私にはできない。」

「な……なにを」

「このホテルの支配人の部屋……そこに、一体の獣がいるの。その獣は、見る人によって姿が変わる。

 ……見る人の、過去の未練を最も端的に表すものになるの。自分の未熟さ故に母親を失ったものは、母親の姿に。慢心で進学の機会を逃したものは、望んでいた大学の卒業証書に。たった一度のミスで破産したものは、金銀財宝に。

 支配人の部屋の獣は、人の心の闇に、容赦なく食らいついてくるの。」

「…………」


 語るリンダの表情は、どこまでも苦しそうで、今この場で倒れてもおかしくはない、と言うほどに歪んでいた。

 しかし、その苦しそうな表情に、どこか狂的な色が混ざっている事に、俺は気が付いた。俺は相手の感情を読むのが得意ではないのだが、何故かこの時は、半ば感覚的なもので理解していた。

 この、リンダ、というベルガールは、狂っている、と。


「私達囚人は、その獣を殺すことで、この監獄から逃げることができる。……でも、そんな事できる訳ないじゃない。

 だって、自分たちが一番望むものを示されて、それを捨てられる人なんて、余程意志を強く持たなきゃできないもの。」

「……なるほど」

「…………でも、私は、一か月前、手に入れたの。私の、一番大切なもの。」


 そう言うとリンダは、それまで下を向けていた顔を、こちらに向ける。その目は、仄暗い感情で濁りきっていた。

 俺は、リンダのその瞳に言い知れぬ恐怖を抱いて、すぐに逃げ出そうと背を向けて走り出す。

 しかし、その動きを読んでいたかのように、リンダは先回りして俺の体に手を回してきた。


「ふふ、逃がさないよ? 私のダーリン。」

「――ッ」


 耳元で囁かれる。その言葉に、俺は戦慄した。

『ダーリン』等と呼んでくる存在に、俺は一人しか心当たりがない。

 ――リンダ・ロレイス。俺が以前交際していた、唯一の女だ。

 しかし、彼女はあの時――


「……ふふ、私は確かに死んだよ。でもね、ここで生き返ったの。」

「……そんなこと」

「あるわけないって? でも、実際にあったんだから、信じるしかないよね。……それで、私もここのみんなと同じように、毎日を過ごしてたの。」

「……」

「でも、グレイ、あなたが来てくれた。あの時からずっと、私の心をつかんで離さなかった、あなたが。」


 俺は、リンダからにじみ出る狂気にあてられて、口を聞けなくなっていた。

 彼女はそれをどう受け止めたのか、軽くケタケタと笑うと、早口でまくしたてる。


「ここにいれば、私はあなたとずっと一緒にいられる。ずっと、ずうっと、ずうぅーっと。欲しいものはなんだって揃うし、やりたい事はなんだってできる。もしもその気があれば、あなたも私と同じように、永遠の存在になれる。そうして、毎日毎日毎日毎日、あなたと一緒にいられるの。ねえ、それって素晴らしいと思わない? 素晴らしいと思うでしょう。ねえ、そうだと言って。私、もうあなたを離したくない。……いや、絶対に離さないわ。あなたが何と言おうと、私は絶対に離さない。無理矢理にでもここに縛り付けて、ずっと一緒に過ごすの。絶対に、それが一番幸せなんだから。ねえ、子供はどうしましょうか。一人? 二人? それとももっとたくさん? 私は幾らでも受け止められる。あなたの気の赴くままに、私を欲望の捌け口にしてくれてもいいわ。私も正直、抑えが聞かなくなりそうなの。あなたの目を見ているだけで、貴方の声を聞いているだけで、貴方の吐く息を吸っているだけで、貴方の体に手を当てているだけで、体が火照っておかしくなってしまいそう。……ふふ、良いよね? 私達、愛し合っているんだから。それくらい当然。毎日疲れて動けなくなるまで愛し合いましょう?」

「――――ッ、」


 俺は、その場から逃げる一心で、リンダの手を払って駆けだした。背後から「……何で逃げるの?」と叫び声が聞こえるが、聞いている暇はない。ただひたすらに、出口に向かって駆けだしていた。

 この時の俺は、急速に目を覚ましていくような感覚を味わっていた。長い永い夢から、ふっと覚めたような感覚。

 それを理解するとともに、足取りも少ししっかりして来た。俺は、ここから逃げるという意思をもって、出口の方へと走った。

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