第23話 餌付けされし兄

「お、お、お兄ちゃんが餌付けされちゃってるぅぅぅぅ!?」


 奏の絶叫が響き渡った。あまりにうるさいもんだから、俺は思わず顔をしかめた。


 今俺がいる場所は、奏のバイト先でもある居酒屋・酔苑すいえんだ。みづきを家まで送り届けたあと、ふと飲みたい気分になってふらっと立ち寄った次第である。


 お座敷席がいくつかと、申し訳程度のカウンター。そしてカウンターの奥には時代遅れの型のテレビが、音楽番組を流している――ここはそんな、どこにでもありそうな居酒屋だ。


 そこでみづきが、最近俺の部屋で練習を兼ねて料理を作ってくれるようになったという話をしたところ――、


「えぐ、えぐっ……ひ、ひどい、お兄ちゃんがひどいよぅ……他の女にいつの間にか餌付けされているなんてぇ……」


 とまあ、例によって割烹着姿の奏がアホなことを言い出したというわけである。


 ……ちなみに、奏の割烹着姿はとても似合っているのだが、見るからに『小学校の給食当番』にしか見えないのだがそれは割愛。


「なにが餌付けだよ、なにが。いちいち表現が大袈裟だっつの」


 カウンター席でタバコを燻らせながらいうと、奏は「そ、そんなことないよぅ」とお盆片手に唇を尖らせた。


「女が男に手料理を振る舞うドーキなんて、たったひとつしかないんだよ、お兄ちゃん!」


「それが餌付けだってか? バカも休み休み言えよ」


「うぅ~っ、そ、そんなんだからお兄ちゃんはお兄ちゃんなんだよ!? ほんとに、お兄ちゃんなんだからっ!」


 ぷんすか怒る奏にげんなりしてしまう。というか、人を指して罵倒語みたいに扱うんじゃねえ。


「いーい、お兄ちゃん! っとくけどね、女が男に手料理を作るなんて、胃袋をぐわし・・・! ってするために決まってんだからっ」


「ぐわしってなんだ、ぐわしって」


「掴むってことだよ!」


「つまり、みづきが俺の胃袋掴もうとしてるって? んなことあるわけねえだろバーカ」


「あ、あるもんっ。うぐぬぬぬ、こ、これはセンソーだよ! かくなるうえは、わたしもお兄ちゃんに手料理を……」


「アホか」


 世迷い言を口にしている奏に呆れつつ、灰皿にタバコを押し付ける。ついでに新しいタバコを一本取り出したところで、「いやぁ、アホはトラさんでしょ」という声と共にコトリとお通しが俺の前に差し出された。


「この件に関しては、奏ちゃんの方が正しいんじゃないっすかね」


「お前までそんなこと言うのかよ、ミヤ」


 話しかけてきたのは、カウンターの奥にいる蛭子ひるこ宮之進みやのしんだった。珍しい名前をしているが、彼を知る人間はたいてい『ミヤ』とか『ミヤノ』と呼んでいる。


 ミヤは高校で一個下だった俺の後輩で、この居酒屋では奏と同じくバイトの身分だ。とはいえ、大将からはよく、本格的に板前にならないかという話を持ちかけられているらしい。


 実際、ミヤの出す料理は基本的には何でも旨い。今出されたお通しだって、ミヤがいつも仕込んでるものらしい。こいつの彼女になる女は幸せだよな。旨いもんをたらふく食わせてもらえるんだから。おまけにシュッとした顔つきで、優男風のイケメンだ。その雰囲気の柔らかさ半分よこせよ。


 お通しで出されたみょうがの味噌焼きを食いながら思う。そりゃあ、ミヤみたいなやつ相手に女が飯を作るようなら、そいつは気があるんだろうさ。ただ、相手が俺ならその限りじゃあねえだろうよ。


「――チッ。あいつはただ、いい機会だからお礼ついでに料理の練習がしたいだけっつってたぞ」


「それを頭っから信じ込みたがる辺りが、ほんとヘタレっていうか……鈍感王辰虎の称号を与えられたのはダテじゃないっていうか……」


「……ちょっと待て。なんだその不名誉な称号は」


「あれ? 知りませんでした? 現役時代のトラさんのあだ名ですけど」


「知るかッ! って、え、俺裏でそんな風に呼ばれてたの!?」


「ああ~、知らなかったんですか。あ、やべ、僕余計なこと言っちゃったかな」


 あはは、となんてことなさそうにミヤが笑う。いかにも女受けしそうなその笑顔に、むかっ腹が立つのはなんでだろう……。


「ま、ぶっちゃけそのみづきちゃんって子がトラさんのこと好きだろうが嫌いだろうがなんでもいいんですけどね。どっちにしたって鈍いトラさんが気づくわけないと思いますし」


「おい」


「ただ、毎日ご飯を作りに来てくれてるのは間違いないんで、お礼のひとつやふたつぐらいは考えといたほうがいいんじゃないですかね?」


「あー……」


 その言葉にはさすがに俺も納得せざるを得ない。みづきの方から申し出てきたこととはいえ、ただそれを受け取るばかりでは申し訳ない気持ちが膨らんでいくのも確かだしな。


「ま、その辺はなんか考えとくわ」


「それがいいっすよ。あ、ちなみに僕の経験則だと、適当にいい感じの自撮りでも撮って送ると超喜ばれますね」


「どうせなら俺でも真似できるアドバイスをくれよ」


「いやトラさんでもできますって。ってか、いっつもブアイソな顔してるからじゃないっすか? もっとちゃんとすれば割とワイルド系な感じの顔面になると思いますけど」


「それができるならとっくの昔にやっとるわ」


「あはは。ま、それはそれとして」


 不意にミヤが真剣な面持ちになる。


「――トラさん。たまには来てくださいよ、僕のライブ」


「…………」


「いつもる時は、今でもトラさんの分のチケット確保してるんですから」


「……っせえな。もう引退したんだ。今さら顔見せられるかよ」


「そう思ってるのはトラさんだけっすよ。来てくれたら、μ’sミューズのみんな絶対喜びますって。なんせ、伝説じゃないっすか、トラさん達は」


 μ’sというのは、俺がバンドをしていた頃によく世話になっていたライブハウスのことだ。RIBERIONを立ち上げる前も、そのあとも、最初にライブをするのはいつだってμ’sだった。


「……」


 ミヤの言葉を聞き流しながら、俺は黙ってタバコを深く吸う。


 そんな俺に、少し咎めるような口調でミヤは言った。


「それとも――まだ、引きずってるんすか。アキさんのこと」


「ちげえよ」


「なら、一人だけRIBERIONリベリオン抜けたことのほうっすか? だから、全然トラさん、μ’sに顔出してくれなくなったんすか?」


 別にそんなんじゃない。そんなんじゃないけど――俺は黙り込んでしまう。


「あの時のことは、トラさんはなにも悪くないじゃないっすか。むしろトラさんに勝手を押し付けてきたのはプロダクションの方で――」


「ミヤ。それ以上はやめとけって」


「でもそれじゃトラさんばっか報われないじゃないですか!」


 不意にミヤがでかい声を出す。盆を運んでいる最中の奏がビクッと肩を震わせて、テーブル席に入っている客達まで一瞬静かになってしまう。


 そのせいか、音楽番組を流していたテレビの音がやたら大きく聴こえてくる。――お次は前回に引き続き、シングルの売上で再び一位に輝いたRIBERIONの皆さんです!


 そして画面の端からは、かつての仲間だったアキ達が登場して――。


 ――椅子をがたつかせながら立ち上がる。


「帰るわ」


 まだ半分以上残ってるタバコを灰皿に押し付け、ミヤに告げる。


 するとミヤは、なんだか泣き出しそうな顔で、「毎度あり」と言った。


 * * *


 会計の時に、ミヤが言った。


「トラさん。すんません、余計なこと言って」


「いや……」


 ミヤを咎めるつもりはなかった。


 代わりに、ミヤの胸を拳で軽く突く。


「こっちこそ悪かったよ。引退したのも、ずっと顔出してねえのも」


「いやもうほんとっすよ。あんまし不義理なもんなんで、僕の口もつい軽くなっちゃうんすよ」


「はっ」


 かもしんねえな。


「でも、ま、トラさんが戻ってくる気になるまではとりあえず走ってみるつもりなんで。る時はまた連絡します」


「……ああ」


「あ、それと」


 背を向けようとする俺に、ミヤが話しかけてくる。


「アキさんからたまに連絡来るっすよ。トラさん、元気にやってるかって。すげー未練たらたらなのが」


「……元気だって返しといてくれ」


「トラさんがそれはやってください」


 ミヤのその言葉を聞いて、俺はこう思ったよ。


 こいつは、俺なんかには出来すぎた後輩だって、な。

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