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『あなたが現れてから全部が狂った。元々狂っていた歯車がさらに狂ったんですよ。愁さんは舞を一番大事にしないといけないんだ。舞がそれを望んでいたのに、愁さんの一番大事な人が舞ではなくなってしまった』

「君に殺されるつもりはないよ。私を殺せる人間がいるとしたら、それはひとりしかいない」

『あなたを殺せる存在は愁さんだけだと?』

「そう。君には無理」


 伶への威嚇もせずに微笑む美夜と、ナイフを手に持ち顔をしかめる伶。二人の間を冬の風が通り抜けた。


 信号を渡ってこちら側に歩いてきた小山真紀、川沿いの脇道から現れた杉浦誠と九条大河、美夜の仲間達が伶を囲む。

誰も銃による威嚇は行わない。美夜のジャケットの腋の下にもいざというときに備えた拳銃が眠っているが、伶に銃口は向けたくなかった。


「私や大橋雪枝への殺意も舞ちゃんを思うがゆえよね。でもその復讐が本当に舞ちゃんのためになる? 頭のいい伶くんはもうわかってるはずよ。復讐は復讐の連鎖しか生まない。君が誰かを殺せば、殺された相手の近しい人間が今度は君の一番大事な舞ちゃんを復讐のターゲットにする。復讐は輪廻を続けて終わらない」


 一昨年から続く連続絞殺事件には、実行犯のエイジェントがあずかり知らない悲劇が起こっていた。


 昨年秋、ある女性会社員が殺された。被害者の名前は武石たけいし玲南れいな、殺害当時の年齢は二十六歳。


殺害方法から考えても玲南はエイジェントに殺されたと見られ、玲南を殺す動機を持つ同じ会社の女性社員、金城かねしろ茉波まなみにはアリバイがあった。

ここまでは連続絞殺事件の典型パターンだ。問題はこの後。


 玲南の父親は娘の死を受け入れられなかった。彼は独自に娘の交遊関係を調べ、玲南の同僚の茉波が娘を恨んでいたと突き止めた。

しかし茉波のアリバイは証明されている。


それでも父親は納得できなかった。茉波の人となりを調べていた彼は、茉波の悪評の数々に理不尽の涙を流す。

どうして茉波が生きていて玲南が死ななければならなかったのか、本当はやはり茉波が犯人で、誰かに娘を殺させたのではないか。


 娘が死に、茉波が生きている現実に我慢できなかった父親は茉波を殺してしまった。法では裁けない茉波に彼は私刑を下したのだ。

復讐は復讐しか生まない。いつまでも負の輪廻は廻り続ける。


「私は綺麗事が嫌いだけどあえて刑事らしい綺麗事を言うなら、他人の罪を裁く権利や資格は誰にもない。警察官の私でも、犯罪者の裁きは法の下でのみ権利が与えられているだけ。君が犯した罪が君にしか償えないように、大橋雪枝も舞ちゃんも自分の罪は自分で償うから。君は誰も裁かなくていい。誰の殺意も背負わなくていい。もう終わりにしよう」


 彼女は躊躇なく銀の刃先の前に進み出た。震える伶の冷えた手にそっと手を重ね、ナイフの柄を彼の手から抜き取った。


伶は泣かない。激昂もしない。

ただ静かに、夏木伶は肩をすくめて美夜を見据える。肩にのし掛かる見えない重圧からやっと解放された彼は苦笑の吐息を白く吐き出した。


『俺はあなたが嫌いです。初めて会った時から嫌いだった』

「嫌いでいいよ。私は木崎さんの大事な宝物を守りたいだけなの。あの人に代わって君と舞ちゃんを守りたかった」


 美夜の手で伶に手錠がかけられた時、まわっていた復讐の輪廻のも緩やかに停止した。それは同時に親が生み出した因果の輪廻に囚われた青年が解放された瞬間でもあった。


        *


 夏木伶は取り調べに素直に応じた。初期化状態だった伶のパソコンは復元され、伶の供述とパソコンのデータによって復讐代行人エイジェントの詳細が明らかとなる。


 伶が復讐依頼の媒介に作成した〈agent〉アプリの大方の仕組みは矢野一輝の分析通り。アプリをインストールした時点でインストールした端末の位置情報が伶のパソコンに届く。

伶は東京二十三区内に位置情報が確認できる利用者の中から、彼が定めたいくつかの条件をクリアした人間に復讐代行案内のメールを送っていた。


 パソコンのデータには依頼人のリストが入っていた。伶が復讐代行を請け負って殺した被害者の数は七十六人、リストに名前のある依頼人の数は六十七人。


伶に殺人を依頼した六十七人の依頼人は殺人教唆きょうさの罪に問われる。七十六人を殺害した伶の罪は重いが、殺人教唆は教唆犯の罪も重罪となり、有罪はまぬがれない。


 依頼料の受け渡しには東京都内の各駅に設置してある電子ロック式のコインロッカーが使われていた。


 まず伶が依頼人宛に都内の駅のコインロッカーを指定し、ロッカーに現金十万を入れてロッカー番号と取り出しに必要な暗証番号の情報を送信フォームから送るようメールで指示。

依頼人は現金十万を持って指定の駅のコインロッカーに向かい、指示通りコインロッカーに十万を預ける。


コインロッカーは日付を跨ぐと追加料金が発生し、利用期限の3日を過ぎると係員が鍵を開けて荷物を取り出してしまう。依頼人が現金を預けたその日に伶か愁がコインロッカーに出向き十万を回収して受け渡しは完了だ。


 銀行を経由した受け渡し方法ではどうしても送金のデータの記録が残る。依頼人と直接対面する受け渡しも依頼人にエイジェントの素性が知られる恐れと誰かに受け渡し現場を目撃される危険があった。


本来、コインロッカーに現金は預けてはならない。固定観念と現代のデジタル時代の裏をついた、アナログで巧妙な手法だった。


 伶が夏木十蔵に持ちかけられた復讐代行ビジネスに手を染めた要因には木崎愁の存在があった。

エイジェントはジョーカーを継ぐ者。夏木十蔵は伶を第二のジョーカーに仕立てあげるための試運転として伶に復讐代行ビジネスを行わせていた。


実子の愁だけでなく養子の伶も自分の手足となって動く暗殺奴隷に利用した夏木十蔵はどこまでも外道な人間だ。


 愁は当初から伶の復讐代行ビジネスには難色を示していたが、夏木十蔵の決定が覆せないことも息子である愁は嫌と言うほど理解している。


 伶が殺人に手を染める側で愁はいくつもの後悔をその身に燃やしただろう。あの時、伶を止めていればと愁は悔やみ続けていた。


だから彼は最後の最後に、美夜に伶を託すことで伶を止めたのだ。

そして木崎愁は消えた。真夜中の楽園からどこにも行けない美夜を、置いてきぼりにして。

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