3-3
「ルイボスティーを容れていたガラスポットを見せていただけますか?」
『……いいですよ』
店の奥に消えた藍川は1分も経たないうちにガラスの麦茶ポットを手に戻ってきた。手書き風の魚と海のイラストが描かれたガラスポットは美夜の手に渡る。
『中身は空ですが』
「結構です。確認したいだけですから」
『確認って……何を?』
藍川の質問に彼女は答えない。ポットの全容がカメラに映るように胸の前で慎重にガラスのポットを動かした。
「このガラスポットは深井貴明の父親が社長を務めるサブマリンフーズが5年前に会社創業50周年を記念して五十本限定で配られた非売品だそうですね」
『ええ、深井から記念品だから使ってくれと貰った物です。有り難くスタッフの飲み物用に使わせてもらってますよ』
残り四十九本のボトルは創業者一族と重役家族、得意先の企業に配られている。
深井の自宅にも同じ材質、同じ絵柄のガラスポットがあり、ポットの中身のアイスティーからはコンバラトキシンが検出された。あの家の冷蔵庫には毒要りのアイスティーボトルが二つ保存されていたのだ。
「ガラスに描かれているイラストは絵本作家の
『趣向?』
「このヨットは帆の部品が1に、この魚の模様は9に見えませんか? 波の形は6、タコの足は3……1、9、6、3。この数字はサブマリンフーズの創業年である1963年を意味します」
ガラスポットに隠された数字の意味は深井貴明の母親が教えてくれた。
毒要りのアイスティーが入っていたガラスポットの現物を深井の両親に確かめた時、最初にポットの違和感に気付いたのは深井の母親だった。
「数字を隠したポットは深井会長夫妻の家にひとつ、深井社長の家にひとつ、息子の貴明にひとつ、貴明の叔父である副社長の家にひとつ、合計で四つになります。限定生産五十個のうち西暦の数字入りのポットは世界に四つしかありません。このポットは四つのうちのひとつです」
シャンプーボトルの底を打ち付ける音が店内に大きく響いた。間仕切りの棚に打ち付けられたプラスチックボトルの音はだんだん大きく、だんだん速く、無言の藍川の代わりに音を発する。
藍川の挙動にも美夜は臆せず話を続けた。
「ガラスポットのイラストを描かれた宮本さんにも現物を確認していただきました。彼は深井の自宅にあったガラスポットは創業者一族のポットではないと断言しています。今ここにあるこのガラスポットは数字入り……これは深井貴明が所有していた物です」
殺害に使用するアイスティーはプラスチックの麦茶ボトルに、自身が普段飲むアイスティーは毒要りと間違えないように魚の絵柄のガラスポットに。
そうやって深井がボトルの用途を分けていたとしたら、魚の絵柄のガラスポットのアイスティーは安全な飲み物だと彼は思い込む。
「深井の友人のあなたは当然、深井の家にも行かれているでしょう。あなたは深井がアイスティーをこのガラスポットに容れていると知っていた。一昨日、深井の自宅に行かれたのでは? その時に深井のガラスポットとあらかじめ毒要りのアイスティーを作って容れておいたご自分のガラスポットをすり替えたんですよね?」
深井の思い込みと絵に隠れた西暦の一点を除けば同じ絵柄、同じ材質であるガラスポットを利用して藍川はトロイの木馬を仕掛けた。
8日の午後、深井は松岡優羽を毒殺後に彼女の死体にアートを施し、またしても鳴沢栞里のスマートフォンで写真を撮影した。
死後硬直が始まっている優羽の身体をかつて祖父が使用していた車椅子に乗せてリビングに面した庭に運んだ彼は死体を庭に埋める。
事件当時の目黒区の天気は昼まで雨、夕方からは曇りのち晴れ。雨で土が柔らかくなっていたとは言え、土を掘って死後硬直の最中の人間を埋める作業はかなりの重労働だ。
ひと仕事を終えた喉の渇きを潤そうと彼が口にしたアイスティーは藍川が仕掛けたトロイの木馬。
自分が犯した罪と同じ方法で友人に殺されると深井は
『前にあなたが店に来た時コーヒー豆を切らしていなければ俺が深井と揃いの非売品を持っているとあなたには気付かれなかったのにな』
「そうですね。ここでルイボスティーをいただかなければ深井が本来持っていたポットの行方はわからないままでした」
『……計画はあなたが店に来たあの日から狂っていたんだろうな』
またボトルの底が悲鳴を上げた。何度も棚に叩きつけられたシャンプーボトルは底の形が変形しつつある。
藍川の豹変を察知した美夜は身構えた。たった今、藍川の手を離れたシャンプーボトルがどの空中経路を通ってどこに着地するか見極めた彼女は軽い身のこなしでボトルの衝突を回避する。
投げつけられたシャンプーボトルは風を切って壁に激突した。衝撃でボトルの中身が床に飛び散っている。
ガラスポットを
ポットを割ってしまえば証拠隠滅になると思っているのだろう。もしポットが割れても美夜の胸元のカメラを通して警視庁のデータにポットを写した映像が記録されている。
刑事に疑われた時点で犯した罪からは逃げられないと頭ではわかっていても追い詰められた人間は我を忘れて獣になる。
『それを渡せっ!』
美夜からガラスポットを奪い取ろうとする藍川は彼女の腕を掴み、ポットに手を伸ばす。抵抗する美夜はポットに触れる藍川の手を退けようと必死でもがいた。
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