3-2

8月10日(Fri)


 港区北青山の路地を昼下がりの太陽が照りつける。三階建てのビルの前で立ち止まった神田美夜はスーツの胸ポケットに取り付けた小型カメラの位置を確認した。


カメラの映像はリアルタイムで警視庁に送られる。これからある人物と対峙する上で映像記録による物的証拠が必要となるからだ。


 二階の窓辺にはブラインドが降りていた。一階の店舗と三階のネイルサロンに人の出入りは確認できるが、ブラインドで閉ざされた二階に人の気配はない。


彼女は螺旋階段を上がって二階の踊り場に出た。ガラス扉には都合により8月10日まで臨時休業、8月11日午前10時より営業再開と記された貼り紙の横にclosedの札がかかっている。


 トントン、と扉をノックをする。ガラス越しに姿を見せたヘアサロンdearlyの店長、藍川龍平は怪訝な顔で鍵を解錠し、扉を開けてくれた。


『この前の刑事さんじゃないですか。店が開くのは明日ですよ』

「存じています。今日はお客として来たのではありません。深井貴明への殺人容疑で藍川さんに事情をお訊きしたいのですが」

『殺人って……深井は自殺したんでしょう? 今日のニュースで散々、深井とサブマリンフーズの名前を聞きましたよ。……大したお構いもできませんが、どうぞ』


店の片隅に積んだ開封済みの段ボールに押し込まれたビニール袋と気泡緩衝材きほうかんしょうざい、壁に立て掛けたモップやバケツなどの掃除用具、営業時間外のヘアサロンはお洒落とは無縁の世界だ。


「明日から営業となると準備が大変ですね」

『有り難いことに明日明後日は予約が埋まっていましてね。掃除とカラー剤やトリートメントの補充をしていました。……栞里ちゃん達が見つかったんですよね』

「はい。深井の自宅の庭から三人の女性の遺体が見つかりました。鳴沢栞里さん、小松原皐月さん、そして松岡優羽さんです。松岡さんもdearlyのお客さんですよね」


 リビングに面した庭の土が最近になって掘り起こされた形跡が広範囲に確認できた。男性刑事が五人がかりで土を掘り返すと土の中から三人の人間の死体が現れた。


7月に殺害された鳴沢栞里だけは死後2週間が経っているため人の形を留めていなかったが、かろうじて小松原皐月と死後二十時間程度が経過した女性はまだ人の姿をしていた。


 三人目の身元はすぐに判明した。栞里や皐月と同じくdearlyの常連客だったアパレル店員の松岡優羽。

彼女もまた、インスタグラムで多くのフォロワーを抱えるインフルエンサーだ。


「解剖の結果、深井貴明と松岡優羽さんの体内からは致死量を上回るコンバラトキシンが検出されました。コンバラトキシンは鈴蘭の花や根に多く含まれる有毒物質です」


 解剖が可能な遺体は深井と優羽の遺体だけだった。

栞里は骨となり、夏の気候も相まって腐敗が進行している皐月の遺体は遺族に見せられる状態ではない。栞里も皐月も適切な死体処理を施した上でやっと両親の元に帰される。


 インスタグラムの中で綺麗な笑顔を残し続ける彼女達の最期の姿。

死体をアートにされたあげくに土に埋められ、若くて美麗な容姿は朽ちて腐り、やがては骨だけとなる。

そんな姿を彼女達は誰にも見られたくないだろう。


「松岡さんが飲んだと思われるアイスティーが保存されていた麦茶ポットの中身からもコンバラトキシンが確認できました。鈴蘭の毒を抽出した水で水出しのアイスティーを作った深井はそれを松岡さんに出したのでしょう。鈴蘭は花瓶に生けるだけでも花瓶の水に毒が溶け込みますよね」


 この世には毒が溢れている。トリカブトやフグの毒といった名の知れた毒以外の知識を人はどこで得る?

鈴蘭に毒があると知る人間がどれだけいる? そんなことは少なくとも日本の義務教育の過程では誰も教えてはくれない。


『俺は実家が花屋なので鈴蘭の毒の怖さは知っていますが、意外と知らない人もいますよね。猫を飼っている家に鈴蘭が生けてあると、こちらがハラハラしますよ。猫って草を食べる習性があるでしょう?』


 埼玉の祖母も飼い猫が草や茎を口にしても害のない植物を選んで庭に植えていた。美夜も結婚式で受け取ったブーケの花がひまわりだったから祖母に渡したのだ。


ブーケの花がもしも鈴蘭だったら祖母の家に置いていかない。間違って猫のちゃちゃ丸が鈴蘭を口にしてしまえば中毒症状を起こして最悪の場合は死んでしまう。


 無知は時に生命を奪う。

無知は恥ではない。無知は凶器なのだ。


「毒の水で作られたアイスティーを疑いもなく飲んだ松岡さんも、おそらくは鳴沢栞里さんと小松原皐月さんもアイスティーに溶け込んだ致死量を越えるコンバラトキシンを摂取して亡くなった。そして深井もコンバラトキシンを摂取して死亡しました。三人の女性を殺したのは深井で間違いないでしょう。ですが深井はあなたが殺したんですよね?」


 店の奥に設置されたシャンプー台の側でボトルの中身を詰め替えていた藍川はビニール手袋を嵌めた手を休めた。美夜を見据える彼の瞳は冷たく笑っている。


『俺が深井を殺した証拠はあるんですか?』

「鈴蘭の最盛期は初夏です。真夏に鈴蘭は手に入りにくい。でも私が先月ここを訪れた時にはあそこの壁に鈴蘭のドライフラワーが吊るされていました」


 美夜は玉置理世に前髪のカットを受けた時に座っていた席を指差す。臨時休業中の今は木目の壁には何の装飾も施されていない。

しかし先月訪れた時はあの席の鏡の横に、確かに鈴蘭のドライフラワーで作られたスワッグがかけられていたのだ。


「藍川さんのご実家の花屋では今の時期も鈴蘭を取り扱っていらっしゃいますよね。ご実家のお店のインスタグラムを拝見しました。夏まで鈴蘭が販売されているために結婚式のブーケ用の注文が絶えないそうですね」

『店に飾るドライフラワーの花は実家の花屋から仕入れていますよ。鈴蘭もね。それだけで犯人扱いですか? 深井も撮影に使う花は俺の実家から仕入れていましたし、夏でも鈴蘭を咲かせる農家や鈴蘭を扱ってる花屋も探せば他にもあると思いますよ』


 殺害に使用された鈴蘭の入手ルートは重要な証拠だ。深井の自宅からは藍川の実家、〈フローリスト・アイカワ〉の領収書も見つかっている。


深井は友人の実家の花屋を利用して毒の精製目的で鈴蘭を購入していた。

そしてコンバラトキシンが大量に溶け込んだ水で作った水出しのアイスティーを誤飲した彼は自ら仕掛けた落とし穴に落ち、虚しい最期を迎えた。


 鈴蘭の物証だけに焦点を当てればそのような筋書きになるが……。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る