第3話 王国騎士ノマド
いや、濡れたオムツもあっという間に乾くのは便利なのである。
水洗いして固く絞った布オムツはユーシの体に乗せるとすぐに湯気をたて始めた。
端から見れば児童虐待じゃないかな、なんて思うのだけどこの世界にそんな概念もあるまい。なんせ児童の権利どころかまず人権が定義されていない。
小難しい思考を放棄すると、オムツの乾きを確認し、ユーシの腰を隠す。
ノマドが訪ねてきてから十日が経っていた。
その間、特に変わったこともなく、強いて言うのなら僕への縁談が二件あったくらいだ。
この辺の人は結婚が早く、僕なんかすでにちょっと出遅れている。
多産の家が多い中では幼い甥っ子を気にしない女の人もいて、家事に追われている現状それは確かにありがたいのだけど、どちらも愛想笑いで断ってしまった。
ノマドがちょっとどストライクの美人で、でも見え隠れするガサツさに惹かれたとかでは断じてない。多分。
だってそうじゃないといい年をして初恋に落ちたみたいで恥ずかしいじゃないか。
と、玄関を叩く音が鳴った。
珍しい。近所の人たちにはノックという習慣が無く、かってにズカズカ入ってくる。
老告知官がまた来たのだろうか。
「はい、はあい!」
ユーシを肩に担ぐと僕は玄関に向かって声を返す。
扉を開けると、果たしてそこにはノマドが立っていた。
心臓が弾むのを感じつつ、同時に彼女が負っているらしい怪我に目がいく。
美しかった長髪は黒いタールのような物がベッタリついているし、頬にも赤黒い泥がこびりついている。
押さえているわき腹にはジワリと血がにじんでいた。
「あれ、どうしたの。大丈夫?」
荒い呼吸、痛みに耐えかねた猫背、そうして血の匂い。
どれをとっても大丈夫なはずがないのはすぐにわかるのに間抜けな質問をせずにおれない。
「弟くん、申し訳ないけど少しかくまって欲しいの!」
彼女が言い終わる前に彼女を家に引っ張り入れる。
どうであっても、入り口でグダグダしているのが一番まずい。
「ダ!」
まだほとんど眼も見えていないはずのユーシが反応したのは濃密な血の匂いにだろうか。
「とにかく座って、ほらお湯と手ぬぐいも」
台所の椅子に座らせると、朝方に大釜で沸かした湯を桶に注いで手ぬぐい一緒に渡す。
手ぬぐいを湯に浸して顔を拭うと、汚れが落ちて本来の美しい顔が戻ってきた。
「怪我はどう?」
「大丈夫、ほとんどは返り血か仲間の血。私自身の怪我は軽いわ」
そうは言うものの、手足には小さな傷が無数にあるし、襟元を染めているのも彼女の鼻血だろう。
「作戦に失敗したわ」
土間の隅で髪を洗い、服を脱いで体を拭くとノマドはつぶやいた。
僕としてはそんなことよりも先に服を着て欲しいのだけど、彼女はどうも僕の視線を気にしないようで堂々と裸体をさらしている。
これも、この世界の貴族的特徴らしく、着替えを手伝う下人に何を見られても恥ずかしくないのだ。
つまり、僕をお手伝いさん程度にしか意識していないのだろう。
ちょっとへこみながら、僕のシャツを渡すとためらい無く袖を通した。
「ここから北の山脈を越えた辺りまで魔族の一団が侵攻してきていたの。私たち王国騎士団の任務はその調査。可能なら撃退、それが無理ならせめて被害の出ない方へ誘導。でも魔族を率いるのは将軍級で私たちはにどうにか出来る強さじゃなかった」
それで姉さんを頼ってきた訳だ。怪物に怪物をぶつけるつもりが、アテが外れたのだろう。
「とにかく、誘導に失敗し私たちも壊滅状態。魔物の軍勢がここへやってくるのもそう遠くないわ。私は残って時間を稼ぐけど、アンタは他の村人と逃げなさい」
苛立たしげにいう彼女の眉間には深い皺が刻まれる。
「ええと、その魔族の軍勢はなんでこっちに進んでくるの?」
「知らないわよ! その辺に温泉でも湧いてるんじゃないの?」
湯治場巡りなら呑気なものだろうけど。
そんなものでいいのなら穴に水ためてユーシを放り込めば……
「あれ、ていうか魔族の目的ってコイツ?」
僕は担いだままのユーシの、ふかふかの尻を叩いた。
「ユーシが魔族から狙われるって言ったじゃん。たしか暴走した魔力がどうとか」
ノマドの大きな目がさらに見開かれた。
「それだ。こんな戦略的価値の薄いクソ田舎にあんな大群を投入するなんて他に無いもの!」
仮にもそのクソ田舎の住民を前にしてノマドは一人納得している。
「それなら僕とユーシが逃げたって追っかけてくるんじゃないの?」
そうして、追いすがる魔族を撃退する力は僕にない。
「く、しかたがない。実は王陛下からマリア様にとお預かりした聖具があるんだけどアンタ、一応マリア様の係累なら使えない?」
ノマドが手をかざすと、その手の内には小さな頭蓋骨が握られていた。
「魔竜の頭部を触媒に封印が施されているわ。相応しい力の持ち主以外には真の姿を見せないといわれる聖なる武器。マリア様もこれさえ持っていれば命を落とすことなど……」
ノマドは悔しそうに顔をゆがませ、頭蓋骨を僕に差し出した。
正直に言えばそんな薄気味の悪い骨なんかさわりたくないのだけど、彼女の眼があまりにまっすぐなので、押しつけられるように渡された頭蓋骨を渋々受け取った。
骨は僕が知っているカルシウムを主体とするそれとは異なり、何となく金属やセラミックに似た艶を持っている。
「それで、これをどうするの?」
くるくる回したり、持ち上げて下からのぞいて見たりするのだけどそれらしいボタンなんかは見あたらない。
その様を見てノマドは失望のため息を吐く。
「封印された魔道具だから道具の方から話しかけてこないんなら、あんたはそれを扱えないわ」
まあ、そうだろう。
僕は姉とは違う。別段、悔しさも無かった。
「じゃ、逃げようか」
誰も、僕に強さなんて望まなかった。
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