名残

@araki

第1話

「葉月ってさ」

「ん?」

「あんま気持ちを表に出さないよな」

 見れば、私の正面、机上で組んだ両腕に頭を乗せて、充がこちらを見上げている。少年のような、純粋な好奇の眼差し。まるで動物園のゾウになった気分だ。

 私は読んでいた文庫に栞を挟み、机に置く。ずっと連れ立ってきたそれは表紙が色あせ、ページの端々が古ぼけている。

 ――あと何度読み返すことになるのかな。

 そんなことを思いながら、私はできる限りの笑顔を作った。

「そんなことないって。まあ、分かりづらいとはよく言われてたけど」

「分かりづらいというか、分かりづらくしてるって感じだろ」

「まさか。気のせいだよ」

 話は終わり。そのつもりで私は物語に手を伸ばす。

 するとさらりと、充は言った。

「だって今、怒ってるのに笑ってる」

 思わず顔をしかめてしまった。

 ――人の気も知らないで。

 確かに、彼の指摘は当たっている。それなのにどうして、その原因に思い当たらないのだろう。

「そう思ったら近づかないものじゃない? 普通」

 当然、皮肉。けれど、充は不敵に笑った。

「悪いな。ただ、知ってるだろ?」

「好奇心第一?」

「そ。だから、目の前にある不思議は無視できない」

「不思議なんて何もないよ。目の前にいるのはただの平凡だよ」

「平凡なんてそれこそどこにもない。あるのは無数の特別だ」

 屈託のない笑顔を見せる充。以前と変わらないその表情に、つい今を忘れそうになる。

 ――長いな、このやりとり。

 私は内心ため息をつく。早く終わらせないと。

「そろそろ千代のところへ行ってあげたら?」

「あいつは今、部活の監督中。俺はむしろ邪魔になる」

「なら職員室に――」

「仕事は特にたまってない。だから安心してくれ」

 どこが安心なのだろう。人気のない放課後の教室、そこで話をする男など、怪しまない方が難しいというのに。

「二人とも新任なんでしょ? せっかく一緒にここへ来られたんだからさ、変な噂で飛ばされたらもったいないって」

「相変わらず心配性だな」

 充はくすりと笑う。それから上体を起こし、軽く伸びをした。

「俺はここじゃ変人で名が通ってる。いまさら噂一つでどうこうならないさ」

「でも――」

「それに」

 充はこつんと机の上板を叩いた。

「俺たちはお前に会いに、ここへ戻ってきたんだ。そこは譲るつもりもない」

「優先順位を考えなよ。ここの席も今の生徒が座るべきなのに」

 不登校の生徒がいる、そう言って充はわざわざここの席を空けた。彼は上手くやったと自慢げでいるが、生徒は明らかに不審がっていた。

「もっと生徒の方を気にかけてあげて。私のことなんか――」

「何言ってんだ」

 充はぴしゃりと私の言葉を遮る。すると、こちらをまっすぐに見つめ、彼は言った。

「今の俺はお前の担任でもあるんだ。その責任が俺にはある」

「……充に教わることなんかないよ」

 私は視線を横に逸らす。

 視界の端、苦笑を漏らした充は肩をすくめた。

「これでも色々経験してきたんだ。優等生のお前にも教えられることはあるはずだ」

 充は重い腰を上げる。そのまま教室の出口へ歩いていった。

 やっと終わった、そう思った矢先、彼がこちらへ振り返った。

「葉月」

「なに」

「今度こそ卒業させてやるから」

 そう言い残し、充は廊下へ姿を消した。

「………」

 私は何も言わず、顔を伏せる。

 下ろした視線の先、そこには無数の傷が刻まれている。その一つ一つがつけられた瞬間をずっと見てきた。

 ――できるならしたいよ。

 心の底からそう思った。

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