葵羽ルート 5話「月の光」
葵羽ルート 5話「月の光」
夕食が終わり、葵羽は「食器ぐらい片付けさせてください」と言ってくれた。彼だけに任せるのは申し訳ないので、手伝いをして貰う事にして2人で食器洗いを済ませた。
楽しい時間はあっという間で、食器洗いが終わってしまったら彼はすぐに帰ってしまうのではと思い、咄嗟に「珈琲入れますので、いただいたケーキ一緒に食べませんか?」と言ってしまった。
すると、葵羽は「ぜひ」と言って頭を撫でてくれる。彼は彩華の気持ちをわかっていたのかもしれない。
それでも断らずに、彩華の想いを受け入れてくれた彼はやはり優しい。
「彩華さんもピアノの弾くんですね。……保育園の先生だと、必要なんですね」
ケーキを食べ終わった頃、ワンルームの狭い部屋で一際存在感がある電子ピアノを見ながら葵羽はそう言った。
保育士や幼稚園教諭になる時は大学でピアノの授業は必修だ。練習室もたくさんあるけれど、それでも埋まってしまう事が多かったし、彩華はピアノが上手な方ではなかったので、バイトをして買ったのだ。
仕事でも新しい曲を子ども達に教えるときは自宅でも練習するため、このピアノはなくてはならないものだった。キャビネットタイプの小さいものだが、木製の淡い色が彩華は気に入っていた。
ジッとピアノを見つめる視線と、先程の言葉が彩華には気になった。
「……あの、葵羽さんも弾くんですか?」
「はい。実はピアノは好きで、得意なんですよ」
「そうなんですか?すごい……」
「そして、ピアノを見るとそのピアノを弾いてみたくなります」
「……私のは安物ですけど、よろしかったら弾いてみますか?」
彩華がそう言うと、葵羽は少年のようにパッと笑顔になり、「ありがとうございます」と言い、ピアノに引き寄せられるように、すぐにピアノ用の椅子に座った。
もう夜なので、音量は小さくしてから、ソの音を指で叩いた。その感触を確かめると、葵羽の表情が変わった。
真剣だけれど、どこか楽しそうで、今からどこか知らない所へ散歩に行く、そんなワクワクしているような表情になったのだ。
そして、彼がピアノに触れた瞬間。彩華はハッとした。
流れるような旋律を指で滑らかに奏で、部屋の雰囲気が一気に変わった。
彩華は驚き、思わず声が出そうになってしまったのを、グッと飲み込んだ。
葵羽が引いてくれたのは、ドビュッシーの「月の光」だった。
それは、彼のイメージによく似ていると、彩華は思った。
彼が最後まで弾き終わると、彩華は拍手をした。
「すごいです!とっても綺麗な月の光ですね。こんなに手が滑らかに動くのなんて、初めてみましたー」
「ありがとう。ピアノ曲に詳しいですね」
「あ、私ドビュッシーの曲が大好きなんです。月の光は特に………だから、驚きました!」
「……そうなんだ。じゃあ、この曲を選んでよかったです」
葵羽はそう言うとまた優しく笑ってくれる。いつもより楽しそうな笑みに見えて、彩華は彼がピアノがとても好きなのだとわかった。
「アラベスクも好きですし、ゴリウォーグのケークウォークも好きなんです。ゴリーウォークのケークウォークは指が跳ねたりもして、遊んでるみたいですよね………って、難しくて私は何も弾けないのですが」
彩華は好きなドビュッシーの話をすると、葵羽は「オーケー」と言って、すぐに鍵盤の上に指を置いて、ゴリーウォークのケークウォークを弾き始めた。好きな曲の演奏に、彩華は「わぁー」と小さく声を上げながら彼の手の動きを見つめた。細く長い指が行ったりきたりして踊っているようだった。
この曲は黒人の人形がぎこちなく踊ったり転んだりしてコミカルな動きをしているところを描いていると聞いたことがあった。音もそうだが、手の動きもそれを模しているようで、彩華はこの曲を弾いている手を見るのも好きだった。
けれど、難しい曲なので、自分で弾けるわけでもなかった。そのため、それを軽々と弾きとても楽しそうにしている葵羽を見て、感嘆の声をあげてしまうのだった。
「葵羽さん、本当にすごいですね。とっても綺麗な音です」
「電子ピアノ大切にしているんですね。とても綺麗ですし、音も澄んでいる」
「………大学の頃一目惚れをしたピアノだったんです。木目が美しくて、温かみを感じたんです。高かったんですが、バイトをして買いました。………それに、弾いているとピアノが喜んでいるのがわかるし」
「うん。それはよくわかりますね」
葵羽は目を細くて笑みを浮かべた。
その後も夜のドビュッシーのピアノコンサートは続いた。
2人だけのコンサートは、今まで参加したどの
コンサートよりも、綺麗に優しくて、そして楽しい時間だった。
5.6曲弾いた辺りで、葵羽はちらりと部屋の時計を見た。それにつられるように彩華もそちらを見ると、もう日付が変わるまで1時間ぐらいになっていた。
「そろそろ帰りますね。女性の部屋にこんな遅くまでいるのはダメですね」
「あ、あの………あと1曲だけ………ダメですか?」
彩華は彼に甘えてしまう。
こんなにも楽しい時間がもうすぐに終わってしまうのだ。
すると、葵羽は椅子に座ったまま彩華を見上げて、「今日は積極的ですね」と、言った。
そして、その後何かを思い付いたのか、何か葵羽は微笑んだ。
「では、彩華さんからキスをしていただけますか?」
「え………」
「キスして貰いたいな、と思いまして」
「………恥ずかしいです……」
「では、今日は帰りますね」
「葵羽さん!!………いじわるです」
「あ、もうバレてしまいましたか」
言葉遊びをしているかのように、彩華の言葉を上手にかわしていく。会話自体を楽しんでいるのか、彩華の反応を面白がっているのか。とても楽しそうに笑みを浮かべている。
「してくれますか?」
「………はい」
そう返事をすると葵羽は満足したのか小さく頷くと、上を向いたままゆっくりと瞼を閉じた。
彼の顔を見下ろした事はなかった。それがとても新鮮で、伏せられた彼の長い睫毛は髪の毛と同じ色だなとか、肌がきめ細かいなとかまじまじと見てしまう。そして、軽く開いた唇をじっとみては、頬を染めてまう。
恥ずかしさから逃げてしまいそうになるけれど、彼と少しでも長く一緒に居たいと思えば、キスするしかないと思った。
ゆっくりと彼に近づき、小さくキスを落とした。温かい感触が彩華の唇に残る。甘く感じるのは先程ケーキを食べたからだろうか。唇を離し、少し離れたところで瞼をゆっくりと開くと、近距離で彼と目が合った。
ドキッとしつつも、照れ笑いをすると、葵羽も少し恥ずかしそうに「ありがとうございます」と言った。
「では、あと1曲弾いたら帰りますね」
「………キスしたのに、帰るんですか?」
「キス以上の事をすることになりますよ?…………ゆっくり、焦らず、ですよ。私も我慢してます」
困った顔を浮かべてそう言うと、葵羽はまたピアノの方を向いて鍵盤の上で手を踊らせた。次もドビュッシーの曲で亜麻色の髪の乙女を聴かせてくれた。
けれど、先程の彼の言葉のせいで、その曲を集中して聞くことは出来なくなってしまったのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます