怪物

「先生…??」


「レティシャ…?」


 目覚めると、目の前にはレティシャの気づかわし気な顔があった。


 私はレティシャを、その白く透き通った肌を眺める。私を起こそうとベッドの上に膝立ちで上がってきたレティシャは白い腿が露わになっていた。


 私はレティシャの肌を見るだけで、そこに自らの牙が突き立つ様を想像してしまう。そこから湧き上がる情動を抑える辛苦を考えると、その刺激は毒に違いなかった。


 レティシャから気を逸らそうと私は半ば反射的に起き上がろうとした。


「先生!無理に起きては体に障ります!」


「…そこをどきなさい、レティシャ」


 私は少々苛立ち始めていた。体内の怪物のような情動を押さえつけるだけでも大変な労苦を要するというのに。この娘は何もわかっていないのだ。


「…本日の診療は中止にしていただくよう、私から患者様にお伝えいたしました。入り口にも張り紙をしてありますから、今日はゆっくりお休みになってください」


 お前が目の前にいること自体が私の体内の痛痒を掻き立て、欲望を更に喚起させるだけだというのに。


「そこをどきなさいレティシャ!!」


 レティシャは私の叱責に歯を食いしばって耐えたようだった。レティシャは肺から絞り出すように言った。


「…いやです!」


「いい加減に…!!」


 私はレティシャの両手を掴みあげ、ベッドからどけようとした。


「…嫌です!!先生!!」


 レティシャは聞き分けのない子供のように両手を振り乱した。


 白い白い、清潔なうなじ。その皮下には肉の快楽けらくを知らぬ無垢で暖かな真紅のエーテル。


 処女は無垢故に疑いや裏切りを知らない。


 無垢とは無限の受容の可能性そのものだ。


 処女の血はそのまま世界の無限の豊かさへの連なりだ。


 私はごくりと喉を鳴らした。情動から神経は昂り、吐息は先ほどの悶着の結果だと誤魔化しようもないほど荒くなっている。


 レティシャは何かを覚悟するかのようにぐっと胎に力を入れた。


「先生…」


 レティシャは緊張の混じった吐息を漏らす、それは私の神経を逆撫でた。


 私はレティシャを抱きすくめ、そのうなじに慎重に顔を埋めた。


 舌で牙の先をぬらりと拭い、口を開きかけたその時だった。


 私の眼前に鏡があった。


 そしてそこに映ったのは…なんだ??


 姉さん…??


 私は訝った。しかし、見れば見るほどそれは姉さんの白い背中だった。


 ちがうんだ、姉さん


 だって、僕は、僕らはあまりに無知で、あまりに無力で。


 知らなかったんだ、自らの存在の罪深さを。


 救いようのなさを。


 だから、姉さん……そんな悲しい顔をしないでおくれ




 …………ああ…………




 ……………………………ああ………………ああ!!




 自分が叫び声をあげていることに気が付いたのは、随分と時間が経ってからだった。


「先生!!先生!!」


 レティシャは気づかわし気な目をしていた。


「あ、ああ…すみません……少し気が…動転してしまったようです…」


 気まずい沈黙の時間が流れた。


 私はレティシャの方を見ると、目が合った。


「先生」


「レティシャ…」


「私の前でくらい…強がったり、偽ったりしないことは…できないんですか?」


 私は訳が分からなかった。


 レティシャの目は真剣そのものだった。


 私は思わず吹き出してしまった。


「せ、先生!!私は真面目な話をしているんです!!」


 レティシャは笑う私を咎めるように赤い顔をして言った。


 私は目の前の少女をいとおしく思うと同時に、憐れむような切ない気持ちが込み上げてきた。それは全く場違いな感情のようだった。


 レティシャ。君は無知だ。


 私という存在の救いようのなさに対しても。人の罪悪に対しても。


 しかし、どうだろう。君という存在の純粋無垢さは。


 その無知ささえも意味深く輝いているように思えるのはなぜだろう。


 しかし…レティシャ。


 それでも君には私という怪物を受容することなどできはしまい。


 人間は脆く、弱い。吸血鬼ヴァンパイアという超越者オーヴァードの前では、恐怖ゆえに従順でいることしかできない。


「レティシャ、君は何にも知らない。人の業も、私という存在の罪深さも…」


 パン


 視界が横に反転し、私は状況を理解するのに数舜を要した。

 

 私はレティシャに頬を張られたのだ。


「…?」


 初めに湧いたのは驚き、聞き分けのない稚児に対する苛立ちや、純粋な興味深さ。


 いくつかの感情や思考が降っては湧いた。


 そしてたどり着いたのは思考とも呼べない思考。




 そう


 何もかもが




 どうでもいい。




 私はその享楽的な自暴自棄さに心身を委ねることにした。


 私は体内から赫手かくしゅを取り出した。


 レティシャの表情にこわばりが走る。


 化け物、そう言い捨て逃げ出したい気持ちだろう。


「…どうだいレティシャ」


 私はレティシャの頬を人差し指で撫でた。


 この時の私の愉悦をどう表現したものだろうか。


 猥褻なポルノを純真無垢な乙女の眼前に突きつけるような下卑た満足感とでも表現すれば事足りるだろうか。


「…レティシャ。君にはできうる限りの選択肢を与えたかったが、今君がとりうる道は二つだけだ。明日から内心で眼前の化け物に畏怖を感じながら何事もなかったかのようにふるまうか…それともわが身可愛さにここを出ていくか…私はこれでも一介の紳士だから君が望むのであれば即刻奴隷という身分からも解放してあげよう…もっとも、生活の手段を持たない君にとって、後者は余り現実的な選択肢とは言えないかも知れないがね」


「………」


「だが、安心し給えレティシャ。私は人の弱さというものに理解が深く、寛容だ。君が自らの無垢さゆえの無謀さを自らの過ちへの苦い反省と共に心の奥底にしまい込み、決して他言せず…今や偽りであったことが露呈した私たちの円満な生活を偽りのまま円満に成立せしめんと努力する意向さえあれば…私は君の一切を許し一切を受け入れよう。どうだい?今その片鱗を見せ始めている『私』という醜悪な辺獄リンボを見た手前、そこに一歩踏み込むよりも日常をよしとして穏便に済ませようというのは人間という生き物の行動特性としてはそれほど不自然でもないし罪と呼ぶにも当たらない…それほど悪い話ではないだろう?…私のいとしいティッシ」


 そこまで言うと私の心にいつもの昏い平穏の気配が兆してきた。


 レティシャは聡く、性質の良い子だ。おそらく、私の提案を受諾するだろう。おそらく、名状しがたいほどの後ろめたさと共に。


 私はそれも悪くないという気がしてきた。


 この夜を境に私が決して浅くも少なくもない煩悶と共に一方的に彼女を瞞着まんちゃくしてきた罪悪は果たして彼女を私の共犯者と仕立てるに至るのだ。


 レティシャは表情を一切変えないまま私をじっと緊張した眼差しで見つめていた。


 するとその緊張が頂点に達し、それと同時に融和するかのように。


 レティシャの目から涙があふれ出したのだ。


 その時、超越者たる私は滑稽なことに動揺していた。


 無垢な少女の流す涙に脅威を感じていたのだ。


 恐怖から涙を流す人間は何度か見たことはある。顔を涙と鼻水でぐしゃぐしゃにして命乞いをする、私にとってこれはステロタイプの一つに過ぎない。


 しかし、それは恐慌状態の人間に限ったことで、このような状況で涙を流す人間というのはやはり見たことがなかった。


 レティシャは黙って私の赫手にそっと片手を添え、もう片方の掌に自らぎりと歯を立てた。


 レティシャが手を差し出すと真っ白な肌のそこには深紅の血が流れていた。レティシャは傷ついた自らの手を私の眼前に差し出した。


 私は驚きから言葉を失っていた。


「…先生は大馬鹿者です…」


 私は彼女のことを侮っていた。


「…何も知らず、無明の中、自らのことを不幸な孤独者だと苛み、貶める愚か者です………」


 彼女の脅威をわかっていなかった。


「あなたのことを支えにする人がいるんです、あなたのことを敬い、慕う人がいるんです、あなたを必要とする人がここにいるんです、それなのにあなたはどうして自分のことをそんなにも蔑ろにするのですか?」


 私は力なく、阿呆のごとく立ち尽くすだけだった。


「あなたはお会いした時からずっと独りでした…あなたが一番辛い時に私はあなたの傍にいられなかった!!…あなたがこの世に生を受けたその日から私があなたの傍にいられたならどんなに良かったか…自らを蔑み他者に絶望する貴方を、何も恐れることなどないと、抱きしめることができたらどんなに良かったでしょうか…!!」


 レティシャはひたすら泣き続けた。


 不思議なことに泣き続ける彼女の白く清潔そうなうなじを見ても、私の赫手かくしゅが欲望に律動することはなかった。


 翌朝目が覚めると、傍らにはレティシャがいた。レティシャは私の赫手かくしゅを慈しむように抱いていた。


 まるで赤子をあやすように。もう何も恐れることなどない、と。


 そして、私の頭痛は引いていた。


 私は一日の始まりを、朝を常に恐れていた。


 そんなにも静かな朝は、私にとって初めてのことだった。

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