第35話:魔女と禍乱
ヒナシア・オーレンタリスが布団を蹴飛ばし飛び起きたのは、夜明けから二時間程が経った頃である。
「……っ、はぁ……はぁ」
脂汗を拭い、木窓を開け放って空を見上げた。アパートの下で住民達が「速かったな、今の」と物珍しそうに言い合っては、ヒナシアと同じく晴れた空を見つめている。
一分後、青空を滑るように――甲高く、胸に響くような独特の轟音を立てて、小さな何かがヒナシアの視界を横切った。ヒナシアは眉をひそめ、目を細める。薄らと軌跡に残った《飛行粒》を認めた。
間違い無い。魔女だ。……それも異常なくらい速度を出している。
久し振りに見た。こんなに速く飛ぶ魔女の姿を――。
「……っ」
クシャクシャと寝癖を直すヒナシア。頭を振っても頬を叩いても……つまらない記憶ばかりが蘇った。
再び、キィン……と耳を穿つような音がした。別の魔女が、先程の魔女を追い掛けて行ったらしい。嫌な事しか思い出さない音に構わず、ヒナシアは顔を洗い、歯を磨きながら――取るべき行動を思案した。
どうする、私。
アゼンカのところへ行くべき? それとも店長達の方へ? 或いはバクティーヌ? ……その前に、何が起きているか知るべきでしょう。
情報を集めるには自分も飛ぶのが一番良いけど……杖は大獄にあるしなぁ。誰かに貸して貰う? いや、無理だろうなぁ。それに、あまり目立つ事はしない方が今後の――。
遠方から、幾度も打たれる鐘の音がした。カンダレアでは王宮からの簡単なメッセージを鐘で伝えられる事がある。例えば正午を告げる時は一二回連続で、休日は夜明けと共に三回、今のように乱打される場合は――。
国家的緊急事態、であった。
「この鐘は……」
「おい、スケベな姉ちゃん!」
普段からヒナシアを穢らわしい目で見ている中年の男が、しかし今日は怯えたような顔で通りから叫んだ。
「アンタ、避難所は知ってんのかよ!」
「避難所? やはり良くない事が――」
分からねぇけどよ――着の身着のままで逃げて行く住民達を目で追いつつ、男はヒナシアを慌てたように手招きした。鐘は未だに鳴り止まず、むしろ激しくさえなっていた。
「ああやってガンガン鐘が鳴ったら逃げる――そう決まってんだよ! ほら、付いて来い! 一番近くの避難所は狭い、早く行かないと満員になっちまう! 何ボサッとしてんだ、緊急事態だぞ緊急事態!」
緊急事態。この言葉でヒナシアの顔は俄に鋭くなり……。
「おい……そんな怖い顔して――って、そこから飛び降りんじゃねぇ……よ……?」
欄干へ軽やかに飛び乗ると、フワリと大きく宙返りをし……そのままアパートの屋上へ着地した。
「ちょ、えぇ!? 姉ちゃん……何者だ……?」
魔女達が飛んで行った方角を見据え、思い切りに目を凝らすヒナシア。遙か遠くで黒煙が幾つも上がっており、魔術発動による閃光が二度、確認出来た。
「…………戦っている、何かと」
三秒後、頭上を通り過ぎようとする魔女を発見したヒナシアは、大きく手を振って無理矢理に急停止をさせた。つんのめるように魔女が空中で制止し、突風がヒナシアの髪を一気に乱した。
「何をしている! 鐘の音が聞こえないのか!?」
魔女は空中で鐘楼を指差した。
「降りられないのか、だったらすぐに降ろして――」
「私は魔女! 《春暁の夢》より出でし魔女、ヒナシア・オーレンタリスです!」
「えぇっ!? 姉ちゃん魔女なのかよ!?」
男がアングリと口を開け、屋上のヒナシアに叫んだ。
「何!? ならば一般人をすぐに避難所へ誘導し、防壁術を施せ! 魔女の役目を忘れたか!」
故あって――ヒナシアは眉をひそめた。
「現在、杖を持っておりません。しかし、役目は忘れていません。この後はすぐに避難の誘導を行います――お願いです、今、カンダレアに何が起こっているか教えて下さい!」
魔女はヒナシアと黒煙の方を交互に見やり……気まずそうに答えた。
「酸噛竜だ。実験場の酸噛竜が飛竜達に刺激されたらしく、此方へ向かって真っ直ぐ来ているそうだ――もう時間が無い! 国民を頼むぞ、ヒナシア・オーレンタリス!」
魔女が黒煙の方角を見据えた瞬間、箒の穂先に大きな魔術紋様が浮かび上がった。刹那、魔女は轟音と共に市街地上空を過ぎて行った。
「おい……姉ちゃん、まだここは満員じゃないんだぜ」
弱々しい声で男が言った。彼の後ろでは避難所に詰め込まれた住民達がひしめき、「戦争だろうか」と不安げに語り合っていた。鐘の理由が酸噛竜である事は……殆どの国民が報されていなかった。
「だから、さ……別のところに行くとか言うなよ。お、俺が嫌だったら……あっちだって空いているし」
そういう訳では無いのです――ヒナシアは困り笑みを浮かべた。
「先程も言った通り、ちょっと気になるところがありまして……そこを確認したら、ここに戻って来ますよ」
「で、でもよ! やっぱり心配なんだよな……」
問題無し! ヒナシアはニッコリと笑い、豊かな胸を叩いた。
「私、これでも頑丈ですから!」
不安そうに笑う男を残し――果たしてヒナシアは全速力で駆け出した。
此方へ向かって真っ直ぐ来ている……あの魔女が教えてくれた通りなら――カイル君達が危ない!
避難する人々に逆らい走る彼女は、件のジャレイル人、ドマンテ・バウロに手酷い仕打ちを受けた少年の事を思った。あの日の翌日、両替したカンダレアの通貨と見舞いの菓子を携え、噴水の広場に向かった際……カイル少年は気恥ずかしそうに、約束を守ったヒナシアを待っていた。
万が一、カイルやその友人達に危害が及んだら――走り続けるヒナシアの胸が痛んだ。
「もっと速く…………仕方ありませんね」
褐色の両足で踏ん張るヒナシア。蹲踞のような体勢から思い切りに跳躍し、商店二階の窓枠を掴むと、更に勢いを付けて屋根上へ登った。
「すいません! 気にしないで下さーい!」
周囲の人間は足を止め、屋根から屋根へと素早く飛び移って行くヒナシアの姿を呆然と見つめていた。彼らに構う事無く、ヒナシアは自慢の身体能力で確実に目的地へと近付いていた。
もう少しだ――ヒナシアが一瞬安堵した時、カイル達の暮らす住宅街の方角に、地響きと共に巨大な瓦礫の塊が……地面から噴き出した。四方から悲鳴が上がり、誰かが「竜だ」と叫んだ。
「……土中から来たという訳ですね……!」
洞穴に吹く風のような、寂しく、おどろおどろしい鳴き声はまさしく――。
かつてジャレイル公国を襲った特定危険竜種、酸噛竜のものだった。
逃げ惑う人間を値踏みするように首を揺らす竜を見つめ、ヒナシアは以前に呼んだ竜種学の本……その一文を思い出した。
『酸噛竜は幼体亜成体に限り、土中を潜って移動する事が確認されている。これは身体から分泌する強酸性の汗が不十分の為、苦手な乾燥を防ぐ防衛行動とされる。汗の代わりとなる瓦礫や泥を付着させ、別の竜種から身を守るという――』
「逃げろ、逃げろぉ!」
酸噛竜は竜種の中でも大型に分類される。幼体と言えども一軒家程の体躯を持つ為、雲の子を散らすように走り逃げる人間など、唯の脆弱な「栄養分」に過ぎない。特に……。
「お母さん、お母さん!」
足を挫き、動けなくなった女性は格好の餌である。傍で少年が泣いていたが、母親は彼をピシャリと叩き、叱咤した。
「何を泣いているんだい! アンタはクーニを背負って逃げるんだよ! 男だろう!? 母さんなんて置いて行きな!」
ズン、ズン……と酸噛竜は舗装路を踏み鳴らし、親子の方へ歩み寄って行く。周囲の人間は彼らに構わず——構う暇も無く——一目散に逃げて行った。少年は泣きながらも幼い妹を背負い、母親の元から駆け出した。
「そうさ、それで良いんだ! やっぱりアンタは良い子だよ! 強く生きるんだよ!」
母親は叫んだ後、振り返って我が身を喰らわんとする竜を睨め付けた。手元に転がっていた小石を投げ付けるも、その巨体には小煩い蚊も同然だった。
「はっ! お前なんて魔女様にやられちまえば良いんだ! みっともない姿をしやがって……食うならとっとと食いな!」
酸噛竜は大顎をガバリと開き、後脚でゆっくりと立ち上がる。捕食時に限り、四足歩行から二足歩行に近い形を取るのだった。
「ひっ……」
倒れ込むように……母親を捕食しようとした酸噛竜は、突如として左顎に突き刺さった物干し竿により、寸刻怯んだ。
「喰らえウォラァアァ!」
重たく、震えるような音が——大顎から鳴った。
砲弾の如き勢いを加えた、極上の飛び蹴りによるものだった。酸噛竜は悲鳴に似た声を上げ、近くの建物を崩しながら倒れ込んだ。
「いよっしゃぁあ! 私の美脚嘗めんなオラァ!」
母親は目を思い切りに見開き……眼前の光景を疑った。
竜種を蹴り倒す人間がいたなんて!?
無論、竜種に蹴りを見舞う者など、世界に何人もいない。それは余程の酔客か、或いは——。
「あ、アンタは……いえ、貴女様は…………?」
「名乗る程のもんじゃありませんって! ちょいと用事で立ち寄った――」
被った瓦礫を払い除け、身体をヨロヨロと持ち上げる竜を……その女は薄黄色の髪を靡かせ、不敵に笑い見据える。
「強くて可憐な魔女で御座います」
餌である人間から急襲を受けた酸噛竜は、苛立たしげに吼声を轟かせた……。
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