第27話:魔女と隣国

 ヒナシア・オーレンタリスは成長していた。当然だが身体的な発育は既に終了している為、今回したのは彼女自身の「精神」であった。


 つい先日に賭博の王国――バクティーヌ特別区から帰還した彼女は、爆発寸前だった賭博欲を結局発散する事は無く、持参した軍資金をそっくりそのまま持ち帰った。何故そのような事態に陥ったかというと、これにはが起きたからなのだが、とにかくヒナシアの財布が傷付く事は無かった。


「…………」


「あの……ヒナシアちゃん……? そろそろ配達行って欲しいんだけど……」


「……もう今日は行きましたよ」


「いや…………今日初めて頼むんだよね……お願い出来る? 今日は配達終わったら上がって良いからさ……ハハ」


「…………うい」


 トロン、というよりはドロンとした双眼のヒナシア。


 彼女の精神は一層――図太さを増していたのだ。


 今日も上司のムルダンから配達を頼まれ、三日に一度は空気が抜ける自転車の方へ歩いて行く。この日は特に弁当や酒瓶が満載され、ペダルを漕ぐのにも力が要りそうだ。余談となるが、最近ムルダンは書店に出向き、『部下にやる気を出させる一〇〇の方法』なる本を買い、毎晩懸命に独学していた。


「……行って来まーす」


「お、おう! 気を付けてね!」


 キコ……キコ……と聞いている方が疲れそうな音を立て、ヒナシアの搭乗する自転車は走り出した。ムルダンは玄関に立ち、やる気の無い部下がキチンと曲がり角を左に曲がるか確認した。やがて自転車はゆっくりと、実にゆっくりと左に曲がり、一応は配達ルートを逸れていない事が分かった。


 後は、ヒナシアが配達を放棄せず……得意先に商品を届けるよう祈るしか出来ないムルダン。


 部下にやる気を出させる方法、その一つ目は「部下を信頼する」であった――。




「あー終わった終わったぁ…………綺麗な足がパンパンですよ……」


 出発から一時間半後、ヒナシアは最後の得意先に酒瓶一〇本を届けると、バクティーヌにあるものより大分小さな噴水の広場に向かい、疲れた両足を冷えた水で洗った。


「ふぇー……冷たい冷たい」


 少し太陽が傾いてきたとはいえ、まだまだ多くの子供が広場で遊んでいた。七人の少年が奇声に似た歓声を上げつつ鬼ごっこをしていたが、やがて彼らは揃って東の方を向き、ピタリと立ち止まった。何事かとヒナシアも視線を動かすと、大変に豪華な馬車が現れ、子供達の遊ぶ広場を横切って行く。


「ほら、どけどけ!」


 小狡そうな御者が怒鳴ると、子供達は不満そうに道を空けたが……。


「あっ」


「馬鹿野郎! 死にてぇのかガキ!」


 ヒナシアは思わず声を上げた。一人の少年が躓き、もう一歩のところで馬車に轢かれ掛けたのである。二頭の馬が怒るように嘶き、馬車が軋みながら急停止した。慌てた為に少年は膝を強く打ったらしく、素早く通路を空ける事が出来ない。


「ったく、しょうもねぇガキだな」


 早くどけ! 御者の剣幕に仲間達も近寄れず、ますます少年の表情は弱っていく一方だった。


 あんな子供を――赦せない。


 俄にヒナシアは立ち上がり、御者の顔でもぶん殴ってやろうとした瞬間……。


「ま、待って下さい!」


「…………えっ?」


 豪華な馬車から飛び降りるように、小柄な女従者が現れる。


 ヒナシアは彼女を見据え……その場から動けなくなってしまった。


 女従者はヒナシアの事には気付かず、蹲る少年を看護しようとしたが――。


「君ぃ、そんな子供は早く捨て置いて、バクティーヌに行こうではないか。うん?」


 小窓から脂ぎった丸顔の中年が顔を覗かせ、座り込んだ少年を面倒そうに見つめた。


「でも……怪我を――」


「これでもやっとけば良いんだ。ほら」


 中年はゴソゴソと胸元に手を突っ込み、金貨を三枚、投げ捨てるように少年へ与えた。その内の一枚は少年の額に当たり、小さな痣を作った。


「ほら、とっとと乗りたまえ。早く」


 女従者は金貨を集めて少年に手渡すと、何度か頭を撫でて……馬車に戻ってしまった。やがて御者は鞭を撓らせ、一行はバクティーヌのある方角へ向かって行った。


 即座にヒナシアはハンカチを水に濡らし、少年に駆け寄る。怯えていた仲間をはじめ、近くにいた子供達も一斉に集まって来た。


「さぁ、もう大丈夫ですよ。膝を見せて下さい」


 少年は気恥ずかしそうに膝をヒナシアに向けた。唯の擦り傷だったが、御者の罵声が彼を重傷者のように振る舞わせたらしい。


「おい……大丈夫かよ、カイル」


「うん、驚いたんだ。大丈夫だよ……」


 少年カイルは何処か惚けた表情で……膝にハンカチを巻いてくれたヒナシアの横顔を見つめた。


「はい、と。大した事無くて良かったです。帰ったらお母さんに消毒して貰って、清潔にしなくてはなりませんよ」


「う、うん」


 偉い! ヒナシアがニッコリ笑うと、カイルは顔を赤らめて俯いた。それから彼女は投げ付けられた三枚の金貨を借り、施された意匠を検分した。


「お姉ちゃん、それ、何処のお金?」


 興味深そうに子供達が訊ねる。ヒナシアはこの金貨に見憶えがあった。


「これは、のお金ですね。このままだとカンダレアでは使えませんが、両替すれば大丈夫。……カイル君、でしたね」


 少年は顔を上げ、ヒナシアを見つめた。


「このお金、私が両替してきてあげましょう」


「で、でも……悪いから……」


 ヒナシアはかぶりを振り、「勿論、泥棒じゃありませんよ。ここにいる皆、全員が証人です」と笑った。


「もし私がお金を持って逃げたら、ムルダン食堂……皆さん知っていますね? 私はあそこでお世話になっていますから、そこに来て下さい。後は、まぁ、店長がどうにかするでしょう」


 知らぬ間に保証人となってしまったムルダン。彼の苦労は膨れ上がるばかりだった。坊主頭の少年が「でも!」と警戒するように反論した。


「お姉ちゃんが悪い人かもしれないだろう。約束なんて、破られるかもしれないだろう……」


 彼の言い分は尤もだった。子供達はヒナシアの事を知らないし、住所も、善人か悪人かも分からない。ヒナシアは「ご尤もですね」と頷き、隣にいた少女から石筆を借り受けると、その場でを描き始めた。


「それ、何?」


 口々に子供達が訊ねる。やがて複雑怪奇な紋様を完成させると、ヒナシアは石筆を持ち主に返却した。


「これは難しい言葉で言うと《起請紋様》と言います。まぁ要するに、『私は絶対に約束を破りません』ってな感じの言葉が、ここに書かれているという訳ですね」


 彼らの頭上に大きな疑問符が生じたが……しかし、一人として「まやかしだ」と糾弾する者はいなかった。


 ヒナシアの表情、声色に一切の偽りが見受けられない事を――子供達は鋭敏に悟ったのである。


「これを描いたという事は、何があっても、どんなに大変でも、自分に危険が及んでも……約束を守るという決意の表れです。カイル君、信じて貰えますか」


 しばらくの間、カイルはパチパチと瞬きをするだけだったが……果たして彼は大きく頷いた。


「ありがとう御座います。明日のお昼、この金貨分のお金をここに持って来ます。カイル君、皆さんと一緒に来て下さいね」


 ヒナシアは自転車に跨がり、心配そうに見つめて来る子供達に手を振った。やがてカイルが立ち上がると、「お姉ちゃん!」と言った。


「お姉ちゃん、名前は何て言うの?」


「あっ……私とした事が! すいませんねぇ――私の名前はヒナシア・オーレンタリス。優しくてとっても美人な、良い子の味方です!」




 その日の晩、ヒナシアはいつもの身軽な服装に着替え、賭博の聖地バクティーヌへと向かった。


 カイル少年から借り受けた金貨を使用する訳でも、彼との約束を忘却した訳でも無い。バクティーヌへ向かう事で……金貨に係るが一気に解決するはずだった。


 一点目。カイルに投げ付けられた金貨は、隣国ので流通するものだった。確かにカンダレアとジャレイルは隣り合った国であったが、国境代わりの大森林や大河、強酸性の湿地帯が両国を分かつ為、殆ど交流が無かった。ジャレイルという国は、楽観的に見れば他人、悲観的に見れば――「得体の知れぬ国」であった。


 加えて――ジャレイルには最近、不穏な噂が纏わり付いていた。


 かの軍事国家ソボニールと結託し、自国と比べて地形的に安全かつ、農作に向いたカンダレアの国土を狙っている……都市伝説のような扱いではあったが、カンダレア人は酒の席でそう語り合っていた。


 そんな国の金貨を持っているなどと知られれば、カイルはおろかその家族にすら「悪評」が付いて回るかもしれなかった。


 そして二点目。ヒナシアにとってはこちらの方が重要であった。カイルを看護しようとした女従者は……彼女のよく知る人物だった。


 その名はハニィ・フォー。先日バクティーヌで喧嘩別れした、黒髪のお下げの憎たらしい、小柄な少女だった――。

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