22話「川を渡る」

 恐る恐る歩を進めて行く雫は自然と川の面へ目を落としていた。


「本当に不思議」


 確かに足に水が当たっている。それなのにしっかりとした感触が有ることが雫には不思議でならなかった。

 月の光を跳ね返して川の面がひらひらと光って見える。光る面と闇を映す暗い面が入れ替わり立ち替わりしながら、緩やかに雫の足下を川の水が流れていく。


(え? 今の・・・)


 うねる水がひらりと光って雫は何かを目にした。それは闇を映し込んだ暗い部分に、ほんの一瞬鮮明に見えた映像。


 雫は立ち止まり水底に目を凝らす。


「あっ!」


 ぎょっとした。

 一瞬見えた映像が厚みを持って立ち上がり、雫のすぐ前に倒れ込んだ自分が横たわっていた。


「私が・・・」


 俯せになった雫の頭から流れる血がコンクリートを赤く染めている。血溜まりが少しずつ大きくなっていくのを見て思わず後ずさった。

 倒れた雫の右足が微妙に変な形で曲がっていて、それは足が折れていることを知らせていた。足から着地した時に折れたに違いない。


「嘘でしょ」


 見開いた自分の目の無機物的な虚ろさにぞっとした。


(死んでる・・・こんな姿で死んだなんて)


 背後からチャッチャッと小さな音がして、実体のない幽霊の体を抜けるように犬が雫の体を通過して足下に現れた。犬は横たわる雫の側で立ち尽くし彼女を見下ろしている。その犬は雫の見知った野良犬だった。


 犬は眉間にしわを寄せ心配しているように見える。


(何度か頭を撫でさせてくれた野良犬だ)


 雫はこんな現場を見せてしまったことを何となく申し訳なく思って犬を見つめた。

 犬は右へ左へとウロウロし、鼻を鳴らしたり小さく声を立てている。


(どうしたの? どうしたの?)


 かすかな声が聞こえて雫が辺りを見回すが誰もいなかった。声に耳を澄ませ音源をたどる。


(痛い? 寝てるの? 何してるの?)


 くぅーん、くぅーんと不安な声を立てる犬から声が聞こえていた。手に鼻を寄せ顔の臭いを嗅いで犬の動きが忙しくなる。


(大変だ、大変だ。呼ばなきゃ、誰か、誰か)


 倒れた雫の周りを一周してウロウロしていた野良犬が走りだす。アパートの敷地を出て行く犬の後を追って雫も敷地から出て行った。


 犬は通りに出て人を捜し見つける度に吠えて声をかける。しかし、煙たがられたり怖がられたりして犬の焦りに気付いてくれる人がなかなか見つからず、2人3人と人が過ぎて行った。

 7人目でようやく犬の行動に興味を持った人が現れて、犬は慌ててきびすを返し青年が犬の後に付いてきてくれた。


「ワン公、どうしたんだ?」


 犬好きらしい若い男の人が犬に連れられてアパートの敷地へ入ってきて第1発見者となった。

 彼が通報し野次馬がやってくるまで野良犬は雫の側で彼女を見つめて立っていてくれた。人の気配が増えてきて犬は心配している面もちのままその場を去っていった。


(またね)


 1度振り返り、犬はそう言った。


「ありがとう」


 雫の声に犬がかすかに笑顔を見せた気がした。それきり映像が消えて雫はまた歩き出す。数歩進むとまた映像が浮かんだ。


 そこには、うずくまった舞鈴が泣いていた。


「ごめん・・・ごめんね、お姉ちゃん」


 しくしくと泣く彼女の肩がかすかに揺れていた。自室のベッドの横で丸まって、舞鈴の泣く姿が悲しくて雫は目をそらした。


(私があんなこと言ったから)


 舞鈴の心の声が波に揺られて雫に届く。


(舞鈴、違うよ。あなたのせいじゃないよ)


 雫は目の前の舞鈴に近寄ってしゃがみ込み、彼女の肩に手をかけようとした・・・が手がすり抜けて触れることは出来なかった。


「お姉ちゃん、ごめん。私が追い込んだんだよね」


 今、雫が側にいることに気付いてはいないはずの舞鈴が問いかける。


「違う、違うんだよ。私が迂闊だったの!」


 舞鈴の前に回り込んで彼女の顔をのぞき込みながら雫は声をかけた。こうしても伝わるかどうか分からないけれど、雫は必死に声を上げる。


「舞鈴のせいじゃないから!」


 ふいに舞鈴が顔を上げた。


「ごめんね。ちゃんと気持ちを伝えればよかったのに、私逃げてた」


 舞鈴の頬に手をかけられる程の距離で雫は気持ちを言葉に乗せる。


「・・・お姉ちゃん?」

「・・・・・・!」

「お姉ちゃんなの!?」


 目をきょろきょろさせて舞鈴が辺りに目を走らせる。


「分かる!? 舞鈴、ここ。ここにいるよ!」

「お姉ちゃ・・・ん、どこ?」


 自分を感じてくれている。舞鈴は今確実に雫を感じてると思うと雫は涙があふれた。


「気のせいかな・・・?」

「違う、ちゃんとここにいるよ! 舞鈴」


 ふいに舞鈴の視線が雫の視線と重なった。


「お姉ちゃん!」


 飛びついてきた舞鈴の腕が雫を抱きしめる。力強く痛いほどに抱きつかれて、雫は泣きながら笑った。


「痛いよ舞鈴、ワン子みたいに飛びかからないでよ」

「お姉ちゃーーん! あああーー!!」

「ごめんね、舞鈴」


 ぶんぶんと頭を振って、それでも声を上げて舞鈴が泣く。


「自殺じゃないの、私うっかり足を滑らせたの」


 ダイブしたとは言わなかった。


「お姉ちゃんの馬鹿ぁ・・・あああ・・・」

「うんうん、お姉ちゃん馬鹿だねぇ」


 ふたりして抱きしめあいながらひとしきり泣いた。


「ごめんね、舞鈴のせいじゃないよ。本当に違うよ」


 雫から少し体を離して舞鈴が雫の頬を撫でる。


「お姉ちゃん、天国でダイエットでもした?」

「あ・・・あはは、舞鈴ったら」


 笑って泣いて肩を叩き合って、久し振りにお腹が痛かった。


「お父さんが居なくなっても、皆で仲良くしたかった。だからギクシャクしたのは辛かったよ」


 雫の言葉に舞鈴の目からまた涙がこぼれる。


「確かに悩んでた。でも、自殺じゃないよ。夕日を見てちょっと寂しくて懐かしくて・・・、4人で行った遊園地が凄く楽しかったから・・・。つい跳ねちゃった」


 上げた両手を握って雫がジャンプしてみせる。家族4人で並んで手を繋いだあの日の様に。


「手が繋がってないのにピョーンって」

「お姉ちゃんったら!」

「馬鹿でしょう」


 笑う雫を舞鈴がぼろぼろと涙をこぼして叩いた。


「痛い、いたい」


 その痛ささえ嬉しかった。


「馬鹿、バカ!」

「馬鹿だよねー、自分でも呆れちゃう」


 笑う雫に「もう!」と舞鈴がひと叩き。


「ねぇ、舞鈴」

「何?」

「私の制服・・・着てくれる?」


 舞鈴の目が見開かれる。


「替わりに卒業してよ、行きたいって言ってたでしょ」

「いいの?」

「制服代も少し浮くし・・・、太らないでよ」


 少し疑わしそうに雫が目を尖らす。


「太らないしッ!」

「痛ッたぁーい」


 力を込めた舞鈴の手が痛い。


(でも、楽しい)


 お互いに笑顔で見つめ合っているうちに舞鈴の姿がゆっくりと消えていった。



 切ない気持ちが胸を疼かせるのを感じながら、雫はまた歩き出す。友達の姿が現れたり近所の人が見えたり、歩いては止まり歩いては止まり・・・。


 自分の勘違いに気付いたり、言葉足らずで友達の心を波立たせたことも知ることが出来た。雫と関わった様々な人の何気ない優しさにも気付かされる。駅員やバス運転手のただの挨拶にも幾分かの愛が乗っていた。



「お母さん」


 ふいに現れたのは雫の母だった。雫の祭壇の前で声を殺して泣いている姿が切ない。


(ごめんね、雫ちゃん)


 心の声が波音に乗ってひたひたと届いた。雫は喉が詰まって声が出せず、ただひたすら黙って首を振った。


(ごめんね・・・。私、一生懸命過ぎたのかな。相談できない雰囲気・・・作っちゃってたかな)


 雫は強く首を振る。


「そんな事無いよ、お母さんのせいじゃない。お母さんは何も悪くないよ」


 母の側に立ち泣きながら雫はそう言った。


「お母さん・・・」

「雫ちゃん」


 呼びかけた雫の声に反応したように、母親も涙をこぼしながら雫を呼んだ。


「雫ちゃんがお母さんって呼んでくれた時、嬉かったぁ・・・」


 泣きながら笑顔を作って雫の写真に目をやる。雫は祭壇との間に座り込み母の目線に入って彼女を見つめ返した。


「お母さん!」


 その声に母がはっとした表情になり、雫の顔を捉えた。


「雫ちゃん!」


 ぱっと雫の頬を両手で包んで泣き顔で笑って涙をぼろぼろとこぼした。雫の肩を撫で手を回して抱きしめてくれる。雫も思いっきり母を抱きしめ返した。


「お母さん、ごめんね」


 母親はただただ首を振って泣いて笑って、もう一度抱きしめた。


「舞鈴にも言ったけど、舞鈴のせいでもお母さんのせいでもないの。ごめんね」


 泣いて謝る雫の頬を撫でて母が涙を拭う。


「私、失敗しちゃった。思い出と現実がごっちゃになっちゃって、ドジったの」

「・・・そう」


 母は涙に塗れた声で、短くそう言っただけだった。

 責めもせず怒鳴りもせず突き詰めもしなかった。ただ、雫の顔を嬉しそうに眺めているだけ。


「雫ちゃんのお母さんになれて、お母さん幸せだったよ」


 震える声で必死に笑顔を作って母がそう言い、雫もまた泣いた。


「お母さん・・・」

「お母さんって呼んでくれて、ありがとう」


 雫は首を振った。


「ママって呼ばなくてごめんね」


 母親がそれを聞いて笑った。


「いいの。何でそう呼ばないかは小さい雫ちゃんが話してくれたから知ってる」

「え?」


 雫の記憶にはなかった。


「ママは雫だけのママに言うの。舞鈴とふたりのママはお母さんって呼ぶ事にするって」


「そんな事・・・言った?」

「そう言ったのよ。ママは特別だからおばちゃんの事はお母さんって呼んでいいよねって」


 こまっしゃくれた子供だ。雫は自分でそう思って笑った。


「それでいいの、雫ちゃんのママは1人だけだもの。大切に取っといていいの」


 どこまでも懐深く一生懸命な母を雫は誇りに思った。


「ありがとう。大好きだよ、お母さん」

「私もよ、雫ちゃん」


 母親の姿がぼやけ初め、静かに川に溶けていくのを雫は静かに見送った。



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