8話「川を渡れる者と渡れぬ者」

 雫は体を震わせて川に浸ったまま座っていた。怖さがまだ残っているからか水に浸った体が冷えたからか、震える拳を見て黙っている雫に声がかかる。


「やっぱり君か、大丈夫か? 怪我はしてないか?」


 顔を上げるとそこに少し前まで一緒だった男性教師の相沢が立っていた。


「怪物はどうした?」


 心配げな相沢の顔を見て思わず涙がこぼれる。


「か・・・川を・・・渡らなかったの?」

「ちょっと君達を待ってみようかと思ってたら、あの男の子がやって来て大きなサソリが出たって言うから心配してたんだ」


 彼は無事に川に到達していたと知って、雫はなぜだかほっとしていた。


「あの男子は川を渡った?」

「ああ、不思議な川だな」


 頷いて相沢が答える。


「立てるか? 一緒に行こう、さぁ」


 手を差し出す相沢に雫は首を振る。

 今、雫は川の中にいる。やはり自分は川を渡れないと思い知らされて雫は切なかった。


「腰が抜けてるならおんぶしてやってもいいぞ」


 彼の声かけに雫はまた首を振った。


「いいの、先に行って。私は・・・大丈夫」


 何か言いたげな気配を残して相沢が川へ一歩進む。彼の足は水に浸かることも触れることもなく水面に立っていた。


「・・・・・・渡れないのか?」


 自分と雫の姿を見れば一目瞭然だ。


 相沢は水に浸かって座り込む雫の腕をおもむろに掴むと引き上げた。とは言っても、立たせたにすぎなかったが。


「私は渡れないの。前にも試したけど私だけは水の上に立てないの、川の中には龍みたいな怪物がいるし、私は無理」


「背負ってやる」

「無理だよ」


 背を向けて腰を落とす相沢に雫は泣き言をもらした。


「やってみなきゃ分からないだろ、試したのか?」


 首を振る雫を見て「さぁ」と相沢が促す。少し迷って、雫はそっと相沢の背に体を預けた。


 しかし・・・。


 背に乗った感触があったにも関わらず、雫の体は相沢の体をするりと抜けて水の中に落ちていた。しばし考えた相沢が砂利の上へ戻り雫を呼び寄せて抱え上げた。雫の体がちゃんと腕の中にあるのを確認して相沢が川に向かう。


 彼の足が川面に立ち数歩進む。


 行けた・・・と思った途端、雫は川の中へ浸かっていた。


「大丈夫か!」


 差し出す相沢の腕を掴んで水の中から雫が立ち上がる。


「げほっ! ごほっ・・・」


 腕を捕まえることは出来る、川縁でなら抱き上げてもらう事も出来る。それなのに川の上では出来ない。


「行って・・・」


 俯く雫が力なくそう言った。

 川は自分で渡らなければいけない、きっとそういう決まりになっているのだろう。相沢もそう悟ったようだった。


「・・・すまない」


 黙って雫は首を振り相沢は後ろ髪引かれながら川を渡って行った。


 昨日と同じように、雫の後からやって来た死者達が次々と川を渡っていった。みんな当たり前のように渡って行く。


「・・・どうして?」


 自分で死を選んだ香織や男子学生は渡って行った。雫のように死ぬ意志が無く、ふいに飛び降りた相沢も川を渡ることが出来る。寿命が尽きてやってきた死者も当然渡って行くのだろう。


「どうして私だけッ・・・!」


 あの男の子は川を渡れと言う。しかし、渡れない。


「渡れ渡れって・・・! 渡れないじゃない! 渡れないんだよ・・・どうしろって言うのよぉ・・・・・・!」


 川を泳いで渡れと言うのだろうか。あの怪物に喰われて苦しんで、何度も喰われながらもがき苦しんで川を渡って行けと言うのか!?


「私が何したって言うの!?」


 雫はだんだんと腹立たしくなって、川底の石を掴んで川に投げ込んだ。


「どうしたらいいのよ」


 空が白むまで雫は川を見ながら虫の音を聞きじっとしていた。


 夜の闇の中海には戻れない。あの蟲達の格好の餌食になってしまうだろう、蟲は人を川に向かわせる為に現れる。少なくともここにいれば襲われることはないと分かった。


 川がかすみ消えゆくのを見ながら雫はどうすべきか考えていた。海へ戻っても同じ事の繰り返し。


 しかし、


(ここに居ても同じ)


「まだ渡れないんだね」


 ぎくりとして振り返ると男の子が立っていた。足音も立てずにいつの間にやって来たのか。


「渡れ渡れってうるさいのよ! どうしたら渡れるか教えなさいよ、あなた知ってるんでしょ?」


 男の子はじっと雫を見上げていたが、やがて小さく溜息をついて踵を返した。


「ちょっと、待ちなさいよ」


 男の子の前へ回り込もうと雫は走った。しかし、なぜか歩く男の子の前に出ることが出来ない。男の子は振り向きもせず立ち止まらずに歩き続ける。


「どうしたらいいのよ!」


 叫ぶ雫の声にやっと立ち止まった男の子が振り返って雫を見つめ返した。


「君が気づくしかない」

「意地悪ね、教えてくれても良いじゃない。自分で気付くのも人に教えてもらうのも同じでしょ」


 小さな口からまた溜息が漏れる。


「君は馬鹿だ・・・と僕が言ったら、君は自分は馬鹿なんだなって納得できる?」


 唐突な切り返しに雫は黙り込んだ。


「どんな尊い言葉でも、それを必要だと気付き受け取る準備が出来ていなければ感動も納得も得られない」


 男の子はあどけない顔に仏のような表情を浮かべて雫を見つめる。


「君は川を渡りたくないわけではないし、川が君を拒んでいるわけでもない」


「・・・だから?」


 男の子が躊躇ためらう。ヒントを与えるべきか否か・・・。


「はぁ・・・。これだからイレギュラーな者は困るんだ・・・」


 小さく愚痴をこぼして男の子が目をそらす。


「イレギュラーな者がいつまでも居ると、別なイレギュラーが起こってしまう」


「類友ってやつ?」


 類は友を呼ぶ・・・そんな言葉を雫が知っている事が意外で、男の子がくすりと笑った。


「自分が死んだ事について、掘り下げてみるといいかもね」


 それだけ言って男の子は雫の前からかき消えた。





 男の子の言葉を思い返し、考えながら雫はぶらぶらと海まで戻って来た。


(やっぱり死んだ自覚が足りないのかなぁ?)


 発作的に死んだ相沢は泣いていた。しかし、泣くほどに死を自覚するなら雫も取り乱して泣き叫んだ。あの時、雫も自分の死を自覚した。


(後悔・・・後悔する気持ちは希薄かもしれない)


 違いはそこだろうか。自殺した男子も相沢も後悔の気持ちを持っているようだった。


(そうだとしたら、香織さんも後悔していたのかな・・・?)


 後悔の気持ちがまったくない事はないだろうけれど、彼女は後悔も受け止めて彼女の中でしっかり飲み込めているように思えた。


「後悔する気持ち・・・しっかり後悔すること?」


 反省すると言うのとは違う気がした。

 心でしっかり後悔する感情を抱くことかもしれないとも思ったが、今更、後悔の念を思えと言われてもそうそう簡単に後悔する気持ちが湧いて来るものでもない。


(・・・どうしたらいいんだろう)


 見つめる海に死者が現れる。もう驚きもしない当たり前の風景。


 雫と同じ年頃の男子だった。

 空を見上げぼーっと海の中に突っ立っている。気の抜けた表情をしてゆっくり波打ち際までやってきて雫に目を留めた。


「ここは・・・何処?」


 雫は自分を見ているような気持ちで彼を見つめ返した。


「何でこんな所にいるんだろう?」


 不思議そうに服を撫で髪を触り辺りを見回している。


 そう、雫もそうだった。死んだ事に気付かず見ている光景がぴんとこなくて戸惑っていた。彼は死んだ直後の雫そのものだ。そう思うと鼻の奥がじんとした。


「・・・天国だよ」

「冗談」


 苦笑いしてもう一度辺りに目を走らせる。


「おかしいな、学校に行く途中のはずなんだけど・・・海って・・・すっげぇ綺麗」


 気を紛らすように彼は笑った。


「天国? 冗談キツいなぁ」


 困った顔の彼の表情が変わった。何かに気付いた、そう言う顔だった。


「まさか・・・本当に?」


 雫に聞き返し、頷く雫を見て彼の目が忙しく動いた。


「いやいやいや・・・・・・嘘だろ。マジか?」


 ひきつった笑い顔で誰かを探しあちこちと目を走らせる。


「小さい男の子は? 幼稚園児か保育園位のチビは見なかった?」


 雫の知っている男の子より幼い子はあの赤ちゃんしか知らない。だから、雫は首を振った。その雫を見て彼は力を抜いてぺたりと砂地に座り込んだ。


「そっか、良かったぁーー」


 そう言って、しばらく経ってから頭を抱え「しまった・・・」とこぼした。


「どうやって死んだか・・・覚えてる?」


 雫がそっと聞くと彼は黙ったままひとつ頷いた。


「咄嗟に出ちゃったんだよ。あんな所に小さいのがひとりでいると思わないから・・・」

「男の子が?」


 また頷いた。


「信号待ちしてたら子供が道路に飛び出して・・・、俺何も考えないで飛び出してた。助けられるかとか、自分も死ぬかもしれないとか・・・なぁーんにも考えてなかった」


 そう言って空を見上げた。


「あぁ、俺・・・空見てた。綺麗な青空だったぁ・・・・・・」


 明るい声で彼は笑った。


「間抜けな死に方」


(間抜けな死に方、か・・・)


「本当に、ここ天国?」

「そのうち納得すると思うよ」

「そっか」



 彼は川を渡れるだろうか?



 雫は頭の隅でそんな事を考えていた。



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