夜眠少女編/第4話:家族と記憶
エディはもともとエマと顔を合わせるためにソフィアに呼び戻されたから一時帰宅したわけだが、どうせだからということで数日は屋敷で過ごすつもりらしい。
セオドアは一日目こそシャーロットを連れて遊びに外出していたけれど、その後は彼自身の実家へ帰るためエディとは別行動となり、エマも初対面から後は彼と会っていない。
アルバートたちが言う通り、エディは無口ではあるものの怖かったり意地悪だったりする、ということはなかった。
シャーロットがお茶に誘えば乗ってくれるし、エマに気づかってケーキのおかわりもすすめてくれる。アルバートと違ってにこりともせずに「食べるか」と短く確認してくるだけだけど。
エマは短い時間で彼が優しい人柄だということをなんとなく感じとった。しかし普段、用事がないときには滅多に顔を合わせることがないから、まだどんな人なのか掴みきれないもどかしさもある。
彼は一人でいるのが好きなようで、基本的には自室に引きこもっているのだ。
だから、まさかエディがそこにいるとは思っていなくて、エマは図書室で彼の姿を見つけた瞬間、驚いて少し飛び上がってしまった。
窓辺で本のページをめくるエディは、エマの視線に気づいて静かに顔をこちらに向けた。
「……おはよう」
「お、おはようございます」
窓から差し込む朝日がまぶしい。こんな早朝に起きているのは夜眠病であるエマとシャーロットくらいだと思っていた。
そう思っていると、エマの心を読んだみたいにエディが口を開く。
「小さかった頃、シャーロットに合わせて一緒に起きるようにしていたから、早起きの癖がついた」
エマは妙に納得した。アルバートもロイもそれなりにシャーロットと仲が良いけれど、彼女が一番心を許している兄はおそらくエディだ。その理由は起床時間といったような、こうしたエディによる些細な歩み寄りの積み重ねにあるのかもしれない。
エディの目線がシャーロットの抱えるものに向いていることに気づいたエマは、おそるおそる彼に近寄って腕に抱いているそれをそっと見せた。
「借りていた本を返しに来たんです」
「眠り姫か」
「はい」
エマはこくりとうなずいた。するとエディがするりと手を伸ばしてその本を腕から抜き取る。
「そこ、座ってて」
エディは自分が腰かけているすぐそばを指差してから、本を持って立ち上がった。
言われた通りにそこに腰をおろして彼に目をやると、エマの代わりに本を戻してくれている。
寝ぐせっぽく髪が小さくはねている後ろ姿をぼんやりと見つめているうちに、エマは不思議な懐かしさに胸をしめつけられる。
「ありがとうございます」
エディは黙って元の場所に座り直し、窓の外に目を向けた。エマも同じように外を見る。すぐ下の庭園を屋敷の庭師が手入れしている。
「食べるか」
顔を横に向けると、包み紙にくるまれた小さなお菓子を差し出されていた。受け取ると、中身はチョコレートだった。
「メイド頭のおばさんが怒るから内緒な」
エマにはたくさんいる使用人の中のどの人がメイド頭のおばさんかわからないが、この部屋でものを食べてはいけないことは知っている。
秘密を共有するときの目で言われ、エマは同意の笑みを浮かべながらそれを口の中に放り込んだ。
舌の上でとろけた甘みが香りになって、鼻の奥に抜けていく。
そのただただ優しすぎる感覚はゆっくりと全身に回る。
つんと目の奥が熱くなり、エマは慌てて下を向いた。
「どうした?」
エディにそっと問われるのと同時に、うつむいたエマの目からぽたりと一滴しずくが落ちる。
「……わかりません」
さらに溢れそうになる涙をこらえながら、エマは答えた。
どうして泣いてしまったのか、本当にわからない。
でもなんだか、どうしようもなく悲しい。どうにかなりそうなくらいに寂しい。
自分でも戸惑いながら少しだけ目線を上げると、エディが困った顔でエマを見ていた。
彼はおそるおそるエマに片手を伸ばし、身に着けている清潔な白いシャツの袖で、新しく一筋流れる涙をぬぐってくれる。
脳裏のシャーロットの姿が思い浮かぶ。兄であるエディにずっと優しくされてきた妹のシャーロット。先日、セオドアに手を差し出されて優雅にその手を取ったお姫様のシャーロット。
エマとは全然違う人。羨ましい。大好きなお姉様だけど、本当のお姉様じゃない。エマはきっと、こんな家に住んでいたお嬢様なんかじゃない。きっと兄もいない。きっと誰かのお姫様でもない。どこかのただのちっぽけな庶民に決まっている……。
「私がいなくなっても誰も私のことを探してくれない。なんにも覚えてないけど、きっと家族に嫌われてたか、家族なんかいない孤児だったんだ」
いつもより少し乱暴な口調でエマは吐き捨てた。
本当は待っていた。ちょっとだけ期待していた。
行方不明になったエマを探している親や兄弟が迎えに来てくれるんじゃないかって。
ここでの暮らしは幸せでありがたいけれど、本当の家族が来てくれたらそれほど嬉しいことはない。
でも、そんなものは来ない。エマがここに引き取られてからかなりの日数が経っている。
きっと、姿を消しても誰にも心配してもらえない程度の子どもだったのだろう。
「私にも、シャーロット様みたいにお兄ちゃんや王子様がいればいいのに……」
しぼり出すようにつぶやく。エディはやはり困った顔のままエマに話しかけた。
「……過去のことはわからないが、この家ではお前がいなくなったらみんなが心配して探し回ると思う。シャーロットも両親も、兄さんたちも。……たぶん俺も」
「……家族じゃないのに、どうして?」
元々いなかった子なんだから、いなくなってもいいでしょう。投げやりな気分で疑問をぶつけると、エディはエマを落ち着かせるようにエマの手を優しく握った。
「俺はまだエマと会ったばかりだから、お前と話すのも緊張するけど……」
エディは考えるように一度言葉を切り、小さく咳ばらいをする。
そして丁寧にエマと目を合わせてきた。
「エマのことを父さんと母さんは本当の娘だと思ってるし、兄さんたちもシャーロットも本当の妹だと思ってるよ。じゃなきゃ無責任にお前のことを引き取ったり養子にしたいとか言ったりするわけがない。……俺も、妹が増えたと思って帰ってきた」
エマは吸い込まれそうな錯覚とともにエディの瞳を見つめる。彼の薄青い目は、シャーロットを見るときと同じような穏やかさでエマを見ていた。
「エマは俺たちの家族だよ」
胸の奥に暖かい灯がぽっと宿った。揺れるその光は、エマの中に巣くう寂しさや不安や嫌な気持ちを覆い、じんわりと広がる。
「か、ぞく……」
こらえていた涙がおさまっている。エマの表情の変化を確認したエディがほっとしたように笑った。初めて見る、彼の柔らかい微笑みだ。
その顔を見せてくれることこそが、エマを本当の家族だと思ってくれている証拠のような気がした。
「もう大丈夫か」
「……はい。ごめんなさい」
「謝らなくていい。もうじき朝食の時間だ。行こう」
促されて立ち上がると、同じように立ったエディが言った。
「王子様は、これからゆっくり見つければいい。シャーロットだってセオを見つけたのは十七のときだ、最近だろ。……兄は、俺も入れたら三人もいる。いつでも甘えたらいい」
語尾が小さくなったあたりで、この人は照れているんだなと気づく。エマは、はにかみながらうなずいた。
「はい」
「うん」
エディがちらりとエマを見て、エマの頭にそっと手を乗せた。
ぽんと置かれたその静かな重みがあったかい。
けれど、さっきも感じたような懐かしさのかけらも一瞬感じ、エマは息を飲む。
「……エマ?」
体を固くしたエマの異変に気が付いたエディがその手を離れさせた。その瞬間、エマの頭の中に一人の男の子の顔が唐突に浮かぶ。
同じように、エマの頭に何度もその手を乗せた人。撫でるのではなく、優しくぽんと置くだけの可愛がり方。
黒い瞳、黒い髪。やせぎすの年上の少年。ぼんやりとしていたその顔がはっきりとしていくにつれて、様々な映像が脳の中で再生され始める。
どこかの田舎の孤児院。いじめられているエマをかばう小さな背中。
二人で手をつないで長い道を歩き、初めて目にした王都の街並み。
床の拭き掃除をしている自分。そう、あれはウィルの酒場。
自分と同じようなぼろぼろの衣服をまとった子どもたち。彼らと一緒に走り回る路地裏。
排水溝の蓋を押し上げて現れる顔見知りの少年。ああ、誰だっけ。まだ名前が思い出せない。
じゃあ最初に思い出したあの少年は? 自分が駆け寄るとふっと表情が緩む。
私は彼を何と呼んでいた?
駆け寄って、優しく頭に触れてくれて、彼の口が「エマ」と名前を呼んでくれる。
その顔を見上げて自分は……。
「ブライ」
自分の口からその名前が出た瞬間、エマは目を大きく見開いた。
体中に雷のような衝撃が走る。そうだ、ブライだ。懐かしさの正体はブライだった。
「ブライ、ブライ。……ブライ」
噛みしめるように何度もその名前を口にしてみる。ゆっくりと肩をゆすられて、はっと前を見ると、真剣な表情のエディがそこにいた。
「あ……」
「何か思い出したのか?」
確認されてエマはまだどこかぼんやりとしたまま首を縦に振る。
「顔色が悪い。部屋に行こう。すぐに母さんたちを呼んでくるから」
エディが何かを言っているけれど、エマの耳には理解できなかった。
一度に大量の記憶が押し寄せてきた混乱で、ふっと意識が遠のく。
「ブライに、会いたい……」
「エマ」
エディに体を支えられるとほっとしてしまい、エマはそのまま目を閉じた。
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