夜眠姫
中村ゆい
第1話:セントクレア家のご令嬢
セントクレア子爵の末娘に会うと、その日はいいことがある。
誰が言い出したのかは知らないが、社交界やその周縁の上流階級の者たちのあいだでは、数年前からそのような噂がまことしやかに囁かれている。
というのも、
しかし姿を現せば人形のような金髪と青い瞳の美少女。珍しく彼女と会うことができた人間は、その会える確率の低さと容姿の愛らしさのおかげで「今日はいい日だ」と思う、らしい。
「みんなどうかしてるよ。シャーロットは生きてる人間なんだから、そりゃあ会うこともあるだろうよ。君に会うだけでいいことがあるなら、俺や父さん、母さん、兄さんたちは今頃いいことづくめのはずだよ」
ぼやきながら神経質に眼鏡のレンズを布で拭いている兄のエディを見て、シャーロットは読みかけの本から顔を上げて微笑んだ。噂通りの宝石のような薄い青色の瞳がすっと細まって白い頬にえくぼが浮かぶ。
「エディ兄さまは夜会が苦手だものね」
「本当に。大学が休暇中でなければ欠席できたのに。こんな時期にとなりの領地で跡取り息子の誕生会なんて……」
エディが大きなため息をつく。
ここ、セントクレア家の領地の隣はロイド伯爵家の領地だが、今日は長男の誕生パーティーが開かれるらしい。
エディとロイド家の息子たちは歳が近く、同じ寄宿学校や大学に通っている縁もあって面識がある。今回、招待されたのも単なるお隣さんというだけでなく、そういう関係性もあるのだろう。
「そんなこと言わずに。若い人だけお呼ばれしている気楽な集まりなんでしょう? 私が代わりに出席できたら良かったけれど、それはできないし……」
「わかってるよ。お前に代わりに行ってほしいとか、そういう意味じゃない」
大きな兄の手が、シャーロットの柔らかな髪をなでる。シャーロットだってそんなことわかっている。このシャーロットとよく似て美しいけれど少し無愛想な一番下の兄エディは、社交の場よりも学術研究の場にいるほうが性に合っているだけなのだ。
ふと窓の外を見ると、太陽が西に傾き始めていた。もう夕方だ。
「さて、そろそろ行く時間だ。シャーロットは寝る時間かな」
「私はもう少し読書してから寝るわ。兄さま、いつ頃帰って来る?」
「どうかな、早く帰ってこられるように努力するけど」
「ううん、少し気になって訊いただけだから急がなくてもいいの。ゆっくりしてきてね」
気乗りしない様子で屋敷を出て行くエディを窓から見送る。
夏真っ盛りのこの時期、上流階級の家の人間は避暑地で過ごすことが多い。
それはシャーロットとエディも例外ではなく、二人は王国の中でも西の端に位置する田舎の所有地に建てられた別荘にいた。
父はここの他にも領地を持っており、両親や他の兄たちはそれぞれ本宅に残ったり他所の別荘で夏を過ごしているため、今この家にいるのは使用人を除けば二人だけ。
人付き合いに興味がないエディといつも引きこもっていて友人が少ないシャーロット兄妹を訪ねてくる者も特におらず、非常に静かな毎日である。
そこに珍しく、ロイド家から若者だけを集めた非公式の誕生パーティーが開かれることになり、声がかかったエディは重い腰を上げて参加することにしたわけだ。
実はシャーロットも招待はされていたのだが、行くことができないため断った。
「こんな体じゃなければなあ……」
つぶやきながら、シャーロットはベッドに倒れこんだ。メイドが体に毛布を掛けて、静かに部屋を出ていく。
外はまだ、真っ赤な夕焼け空が広がっていたが、目を閉じるとあっという間に眠気がやって来て寝入ってしまった。
夕方に眠り、明け方に目覚める。
これが生まれてから十七年間、当たり前のように続けてきたシャーロットの生活リズムだ。
毎日十時間以上睡眠時間に当てていることになるが、彼女の体調のことを考えると仕方がない。そういう、病なのだから。
おかげで学校に通わず家庭教師をつけて勉強し、エディのように夜の催し物には参加しない、引きこもった箱入り生活を送っている。
少し他の人よりも早起きし、他の人よりも早く寝る。使用人は何か文句を言ったりすることなくシャーロットに合わせて身の回りの世話をしてくれるし、両親や3人いる兄たちもシャーロットの起きている時間に合わせて話し相手や遊び相手になってくれる。
だけど生活の形のズレは確かにある。例えば家族と一緒にディナーを楽しめなかったり。
そんな、家族の中でほんの少し浮いている存在のシャーロットに一番寄り添ってくれているのが、三番目の兄、エディだ。今年も大学の夏休みをほとんど丸々、シャーロットと一緒に過ごしてくれるつもりらしい。
そんな優しい兄に珍しくパーティーのお誘いがあるとなれば、自分のことなど気にせず楽しんできてほしい。
そう思って送り出したつもりだったけれど、話し相手がエディくらいしかいないものだから、寂しさもあるにはある。
翌朝、朝食の時間を過ぎて昼を回ってもまだ帰ってくる気配のないエディのことを考えて、シャーロットは小さくため息をついた。
ゆっくりしてきてとは言ったけれど、ただでさえこの屋敷には人がいないのにエディも留守となると正直、暇を持て余す。
「エディ坊ちゃま、きっと謝りながらお帰りになりますよ。遅くなって申し訳ないって」
カップに紅茶を注ぎながら、メイドがシャーロットの表情を見てなぐさめるように話しかけてくれる。今までにも何度か謝りつつ帰ってきた兄の姿を思い出して、シャーロットは薄く微笑んだ。
実は昨日から、エディがなかなか帰ってこないかもしれないとは予想していた。
彼自身は早く帰りたいと思っているだろうが、どうもあの兄は引き留められたら断れない性分でもあるのだ。
本人は面倒だと言うけれど、頻繁に遊びの誘いを持ちかけられているのをシャーロットは知っている。なんだかんだで友人からは好かれているのだ。
若者ばかりが集まるパーティーなら、誰か仲の良い友人に出会って会がお開きになってからも遊びに付き合わされているかもしれない。
だからまあ、ひとりきりのアフタヌーンティーも仕方がないわ。
あきらめて寂しくカップの縁に口をつけたとき。使用人がエディの帰りを告げた。
スカートの裾を持ち上げて階段を駆け下りると、玄関ホールに帰宅したばかりのエディの姿を見つける。嬉しくなったシャーロットは階段の最後の数段を飛び降りた。
「お帰りなさい」
「ただいま。遅くなって悪かった。あと、家の中を走るのは行儀が悪いぞ」
たしなめるような口調のエディの視線の先には、来客がいた。
今さらながらその存在に気づいたシャーロットは、まだつかんでいたスカートの裾を慌てて戻した。
エディの背後に立っていた来客は、エディと同じくらいの年齢の、赤みがかった髪が印象的な青年だった。
エディが何度か家に友人を連れてくることは今までにもあったが、この人とシャーロットはおそらく初対面。彼の学友か、社交界の知り合いか……。
青年の人懐こそうに光るグレーの瞳がシャーロットを捉え、にっこりと笑った。
「この子が噂の、セントクレア家のご令嬢? へーえ、エディもなかなかの美青年だけど、よく似て美人じゃないか! はじめまして、エディの親友のセオドア・ロイドです! 大学ではいつも試験前にお兄さんにお世話になってます!」
「えーっと、昨日お誕生日だった、ロイド家の?」
強引に手を取り挨拶してくる相手に目を白黒させて答えると、見かねたエディが彼をシャーロットから引き離してくれた。
「親友じゃない。ただの同級生だ。それから、昨日の誕生会の主役はこいつのお兄さん。セオは次男だよ」
「あっ、そうだったんですね。ごめんなさい、間違えちゃいました」
「いやいや、まあ、僕ってお喋りでうっとうしい感じが夏っぽいらしくてよく夏生まれだと思われちゃうんだけど、実は冬生まれなんだよねー」
にこにことそう言うセオドアの隣で、エディがやれやれといったふうに肩をすくめた。
案の定、誕生パーティーに出席した後エディは友人たちに声をかけられそのままロイド家に留まって遊びに付き合わされていたらしい。
昼過ぎになるとさすがに遊び飽きた者や徹夜で疲れ切った者も出てきてなんとなく解散になったものの、まだまだ元気だったのがこのセオドア。帰ろうとするエディに絡み、じゃあうちの別荘に招待したんだから今度はそっちの家にお邪魔したいと言い出して、セントクレア家までついて来てしまったため、エディも断るのも面倒になって中に入れたらしい。
「突然だから何のもてなしもできないが、セオならもてなさなくてもまあいいかと思ってそのまま帰ってきた」
「その言い方ひどくない? でも、エディって家に遊びに行きたいって言ってもはぐらかしたりするから、私生活が謎だって僕たちの中では有名なんだよね。だからここまで追い払われなかっただけでも嬉しい!」
呑気に笑ってお茶をご馳走になっているセオドアを前に、やっと緊張が解けてきたシャーロットはくすりと笑った。
さっきエディはただの同級生だと言ったけれど、セオと愛称で呼んだり遠慮のないやり取りをしているあたり、親友というのもあながち間違いではないのかもしれない。
けれど、窓の外に目を向けるともう夕方だ。しかもエディとセオドアの会話に加わっていたおかげでいつもよりも夜更かしなくらいだ。
急がなければすぐ夜になってしまうだろう。背後に控えていたメイドと目が合い、就寝の時間だと表情だけで促される。
「お兄さま、私そろそろ……」
「ああ、もう時間か」
静かに席を立つと、セオドアがきょとんとした顔をした。
「何かあるの?」
「私はもう就寝の時間なんです」
シャーロットは少し焦った気分で返事をする。太陽が落ちるまでに準備をしてベッドに入らなければいけない。
「まだ午後の五時過ぎなのに?」
「シャーロットは毎日この時間に寝ることになってるんだ。俺も昨日からの疲れが溜まっていて今日は眠いな……セオ、夕食は取っていくか?」
「いや、僕ももう帰るよ……」
まだ訝しげにこちらを見ているセオドアに軽くお辞儀をして、シャーロットはメイドを一人連れて、そそくさと応接間を出た。
「ちょっと待って」
廊下で呼び止められて振り向くと、追いかけてきたらしいセオドアが困惑しきった顔でこちらを見ていた。
「髪留め、落ちたよ」
「あっ……」
自分の頭をさわると、つけていたはずの髪飾りがなくなっていた。
「すみません。ありがとうございます」
髪留めを受け取りながらふと目線を窓の外に移すと、ほとんど日が落ちかけていた。ああ、もう間に合わない……。
「お嬢様っ」
「えっ、シャーロット?」
セオドアとメイドが声をあげるのを聞きながら、シャーロットは意識を手放した。
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