第20話 夏休み(休むとは言っていない)
夏休みとは何か?
読んで字の如く夏に休むことである。
なので僕が日がな一日家でごろごろし、非生産的な時間を垂れ流そうと非難される謂れはない。むしろ本来的な意味での夏休みを忠実に実行していると言える。
――なんてことをつらつらと語ってみせたところ、「学生は夏休みでもね、母親業には夏休みなんてないのだから息子業にだって夏休みなんてないのよ。だから学校が休みでも家では働きなさい」との反駁にあった。なるほど、そう言われると言い返せないのが被扶養家族の弱いところである。
要約すると、母親に買い物を言いつけられたので反抗したら普通に説教された、というだけの話。子どもか。
己のいささか幼稚な振る舞いを反省して買い物に出かける準備をする。
「何を買ってくればいいの?」
「えっとー、卵とー、牛乳とー、あとトイレットペーパー」
はいはい、と気のない返事で玄関に向かいかけると、背後からぬおーっと伸びてきた人影が僕の肩にのしかかってきた。
「それとアイスもー!」
耳元で大声を上げられた僕の鼓膜が悲鳴を上げる。
「うるさいから家の中で叫ぶんじゃない」
文句を言いながら首だけで振り向くとそこにいたのは妖怪アイス小僧だった。まったく、随分とハイカラな妖怪がいたものだ。
「妖怪じゃないし! というか小僧でもないから! 小娘だから!」
おっと、口に出ていた。再び耳元で音量マックスの抗議をくらい顔をしかめる。
「いや自分で小娘って言っちゃうのかよ」
「はっ間違えた! に……兄貴のばかっ!」
「おい、その墓穴は僕じゃなくお前が掘ったものだぞ」
顔を赤くして僕の肩を殴打してくるのは、妖怪アイス小娘ならぬ
小学五年生となり自我が芽生えたのか、明夢は僕のことを『兄貴』と呼ぶようになった。以前は無邪気に『にいに』と呼んでいたのに、さすがに高学年ともなると羞恥を覚えるのだろう。最近では態度もひねくれ、可愛げというものがすっかりなくなってしまった。嘆かわしいことだ。
「おけつ……、あ、兄貴のへんたいっ! おかーさーん、兄貴があたしのお尻を狙ってるんだけどー!」
明夢は行儀悪くソファの上で伸び上がって僕の肩に掛けていた両手を慌ててお尻に回した。いや、別に隠さなくても狙ってないからね?
「ちょっとー、お兄ちゃんが妹に変なことしないでよー? 罰としてアイスも買ってきてあげなさい。お母さんはハーゲンね」
キッチンからのんびりと窘める声が聞こえてくる。というかどさくさ紛れにちゃっかりお高いアイスを要求するな。自分が食べたいだけだろ。
「わーい、あたしはボーデンね!」
お上の一声に気を良くしたのかソファの上で歓声を上げる妹。なんでお前はちょっと通ぶるの? あとあれ近所のスーパーだと大きいカップのしか売ってないよね。ちょっと強欲じゃない?
「……仕方ない、そんなに言うのなら二人にはガリガリ君を買ってきてやろう」
「ひどーい!」
「お母さんが食べたいのは氷菓でもラクトアイスでもないの! アイスクリームが食べたいのよっ!」
言い捨てて今度こそ玄関に向かうと後ろから悲痛な声が届く。なんで母親の方がムキになってるんだよ……。
「わがままを言うなら買ってこないからな」
「おうぼうだー! どくさいしゃだー!」
「息子が反抗期でお母さんは悲しい……」
非難と悲嘆をそれぞれ黙殺していると、靴を履き終わる頃には静かになった。
さて行くか、と腰を上げたところで背中に何やら視線を感じる。
「…………」
「……いや何」
リビングから顔だけ覗かせた明夢が無言で僕を睨んでいた。根負けした僕が尋ねると、明夢はふにゃり、と眉を下げる。
「……ホントに買ってきてくれないの?」
「…………はぁ」
まるでこの世の終わりみたいな、そんな見捨てられたような顔をされてはあんまり無碍にもできない。普段は生意気で可愛げのない妹だが、こういうところはしっかりと兄の扱いを心得ているのだ、こいつは。呆れとも諦めともつかないため息が零れる。
「……買ってくるから、おとなしく待ってな」
僕の言葉に明夢はぱぁっと目を輝かせる。
「わーい、にいにだいすきー!」
まったく、現金な奴……と、頭の横で結んだ髪をぴょこんと嬉しそうに揺らす明夢に呆れる。というか、兄貴呼びを忘れているぞ。
「……あっ、兄貴! 兄貴だからね!」
僕が指摘するよりも早くに気づいた明夢はつっけんどんに言い直してからリビングに引っ込んでしまった。ぅうむ、年頃の女の子は難しいな……。
*
徒歩数分、辿り着いたスーパーで頼まれた品をかごに入れ、あとはアイスだな、と売り場に足を向けながらふと財布の中を確認する。
「あっ……」
特に中身を気にすることなく出てきたから所持金は今の時点で結構ギリギリだった。これはお高いアイスは無理だな。もうなんでもいいか。
出がけに不評だったガリガリ君は避けつつ(僕は嫌いではないですけどね?)、適当にお手頃な値段のアイスをかごに放り込む。
なけなしのお金で無事に会計を済ませ、買ったアイスが溶けないうちにと、心持ち早足で帰途についた。
*
「ただいまー」
「あっ兄貴ー、アイス買ってきてくれたー?」
家のドアを開けるとおかえりの一言よりも先にそんな声が飛んでくる。妹よ、そういうところだぞ。
「買ってきたよ」
「わーい――って、つめたー!?」
リビングを突っ切りざま、ソファの上でだらしなく寝そべっている明夢の腹の上にアイスを放り投げてやった。
「って、これボーデンじゃないじゃん!」
買い物の袋をキッチンにいた母に渡していると、どたどたと妹が駆け込んでくる。手にはスーパーカップのバニラ味を持ち、憤懣やるかたない、といった風情である。
「お金がなかったんだ。仕方ないよね」
お金がなくてはほしいものも手に入らないのだ、と社会の摂理を説くも、明夢は納得いかない様子で「うー!」と唸っている。
小学生には少々酷かもしれないが、生きるというのはこうして折り合いをつけるということだぞ、妹よ。
人生の先達として妹に教えを授けようとしたところで、今度は買い物袋を漁っていた母が「あー!?」と奇声を上げる。今度はなんだというのだ。
若干うんざりしながら見ると、母は震える手でスーパーカップのチョコ味を持っていた。いい加減スーパーカップに失礼だからやめよう?
「こ、これ……」
「いや、だからお金がなかったからハーゲンは買えなかったんだよ」
先んじて僕が弁明するも、母はふるふると首を振る。
「ううん、それはいいの。アイスクリームなら別になんでも」
「ん? じゃあ何が不満なの」
僕の問いに、母は耐えきれなくなったように零した。
「これは……アイスクリームじゃなくて、ラクトアイスなのぉ」
僕の鼻先にスーパーカップのチョコ味が突きつけられる。そこには確かにラクトアイスと書かれていた。……いやまぁ、言いたいことはわかったけれど、別に良くない?
無駄に細かいこだわりに辟易していると、今度は妹が「兄貴いけないんだー! おかーさん泣かせたー!」と騒ぎ出した。小学生かよ……、と思うが正真正銘の小学生だった。くそ。
「罰として今度こそボーデンとハーゲン買ってきて!」
「はぁ?」
あまりにも居丈高な物言いに、さすがに兄として一言がつんと言ってやらねばこやつの増長はとどまることを知らないな、と思ったところで、よよよ、と芝居がかった仕草で母がキッチンの床に崩れ落ちる。
「ほらーおかーさん泣いてるよー! 買ってきて!」
「よよよー」
「いや、よよよって口で言ってるし、嘘泣きにも程があるだろ……」
「よよよー…………ちらっ」
「あっ今ちらってこっち見た! 全然泣いてない!」
「女は心で泣くんだよ、兄貴!」
「小学生風情がわかったふうな口を利くな!?」
ボーデン、ハーゲン、と繰り返す妹と母親に僕は頭が痛くなる。
かように夏休みとは休まらないものであるか、と独りごちながら、僕は本日二度目の買い物に出かける羽目になった。
*
ちなみに帰ったら母と妹は仲良くスーパーカップのバニラとチョコを分け合って食べていた。うんうん、微笑ましいな――って、いや普通に食べるのかよ。
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