第10話 口実

 高校生といえば制服である。そして制服とは一種の擬態である、と僕は思う。


 本来ならば十人十色、千差万別である少年少女を画一な制服に押し込めることによって、『高校生』という記号的枠組みの中にも押し込めることになるのだ。そうして語られる『高校生』像は、確かに世の高校生に見られる平均的な特徴を捉えてはいるのだが、それゆえに均質化し、ほんの少しばかりのフィクション的な作為のようなものを感じる。


 普段はそんな記号的な存在である僕らが個々の人間としての色を露わにするのは、すなわち制服を脱ぎ去った時だ。


 つまり、何が言いたいかというと、僕が山吹菫やまぶきすみれの私服姿を見るのは初めてだ、ということである。逆もまた然り。




 事の発端はゴールデンウィークも半分程が過ぎたある夜のこと、自室の勉強机に置いたスマホが山吹からのメッセージを受信した。


 借りている本を返す、との内容であったが、本題はそこではない。肝心なのは僕の自宅の所在地を聞いた山吹が、近くの喫茶店を返却場所に指定してきたことだ。その段になってようやく、僕は事の深刻さを悟る。


 僕らの間の本の貸し借りは実にプリミティブな形式のものだ。つまり手渡し。宅配レンタルサービスなんて先進的な手段を取り得ない以上、直接会うことは避けられない。これが普段であれば部活動の時間に嫌でも会うことになるので問題はない。


 問題なのは今がゴールデンウィーク中であること。そして休日には制服を着ない、ということである。制服を着ないとはどういうことか? 全裸で外出することは倫理性の欠如から除外するとして、すなわち私服を着るということである。


 そして、休日に外に出るということを極力避けてきた僕にとってそれは至極難題であった。


 いや、何も休日に制服の着用を禁ずる校則も法律もない。よって物理的に制服を着ることはできる。しかし再三言うように今はゴールデンウィーク中である。世間的にもそれは周知の事実。それなのに僕が制服を着て指定の場所に現れたら山吹はどう思うだろうか?


 ひねくれ者で口の悪い山吹のことだ。僕が制服着用に至った過程を推測し、ニヤニヤとうすら笑いを浮かべてこう言うだろう。


「先輩、休日なのにどうして制服なんて着ているのですか? ……あぁ、いえ、答えなくても結構です。友達もおらず、休日に誰かと会うこともないから、どんな服装をすれば良いのかわからなかったのですよね?」


 おほほほほ、と想像上の山吹が高らかに笑い声を上げたところで僕は我に返った。さすがに山吹がそんな有閑マダムじみた笑い方をするところは見たことがない。落ち着こう。

 

 とはいえ、想像したのと大差ない所感を抱かれるのは確実だ。僕としても、わかりやすくウィークポイントを晒した状態で山吹と相対するのは避けたい。柔らかければ柔らかい程寸鉄はよく刺さる。十分に武装した状態で臨まなければならない相手だ。


 ……いや、よく考えよう。これは別に果たし合いでもなんでもない。後輩の女子と会うだけだ。本を返してもらって、まぁちょっとおしゃべりをするくらいだろう。


 となれば求められるのは武装ではない。常識的な服装だ。何もお洒落をする必要もない。常識さえあれば良いのだ。


 常識。……とりあえずスマホで『服装 常識』を調べてみる。ヒットするのはビジネスマナーばかり。あれ、常識的な服装とはつまりスーツであるか? と頭を抱えることになった。


   *


 翌日、待ち合わせの時間よりも幾分早い時間に指定の喫茶店に着いたので、お先にコーヒーブレイクを決めている。昨夜は混乱してスーツを買いに走りそうになったがすんでのところで我に返り、今はシンプルに白シャツにチノパンという格好だ。危なかった。


 山吹の指定した喫茶店『喫茶室ブラウン』はウッド調の落ち着いた内装のこじんまりした店で、奥の二人がけの席からの眺めもなかなかに雰囲気が良い。柱時計のコッチ、コッチ、と規則的な音は読書のBGMに良いかもしれないなぁ、などと考えていたところで、鈴の音と共に店の扉が開いた。定まらずに店内をふわふわしていた視線がそちらに向く。


 入ってきた私服姿の少女を見て、思わず僕は息を呑んだ。


 その少女こそ山吹菫であった。けれどそのことに驚いたわけではない。約束の時刻五分前で、そろそろ来るだろうか、との予感はあった。


 僕を驚かせたのはその服装だ。

 山吹が私服姿で来ることはわかっていた。だからこそ、僕は彼女がどんな装いで来るか予想し、絶対に驚いたり言葉を失ったりしないよう綿密なシュミレートを行っていたのだ。


 僕の予想はこうだった。

 休日に誰かと会うことのない僕に対し、格の違いを見せつけるため山吹はお洒落という概念を具現化したような姿で現れるだろう。ここまでが予想の第一段階。


 いや待て、とここで打ち立てた予想に対し異議が申し立てられる。


 山吹がそんな安直な思考をするだろうか? 相手はあのひねくれ者である。そして猫被りでもあり体面というものを気にする。もし僕相手に気合い十分のお洒落な格好をして来て、それを誰か知り合いに見られたとしたら、その姿は完全に『意気揚々とデートにやって来た少女』である。ましてその相手が僕のような根暗な人間だと誤解されるような状況だ。あの山吹がそんなリスクを負ってまで過剰にお洒落をしてくることは考えにくい。


 つまり、山吹がしてくる可能性が最も高い服装は『お洒落でもなんでもない、ティーシャツにジーンズといったような、ただ単純に家にある服を着て来ました、以上の意図が読み取れない服装』である……! これに違いない。


 ――と、最終的に我ながら山吹の思考を完璧にトレースできたと言える予想を打ち立てていたのだ。


 けれど、実際の彼女は僕の予想をやすやすと超えてきて、僕は言葉を失って驚くしかない。


「あ、先輩。早いですね。ひょっとしてお待たせしてしまいましたか?」

 

 そう言って早足で僕の座るテーブルへと近づいてきた彼女に咄嗟に返事ができず、僕は鷹揚に頷いてコーヒーカップを傾ける他なかった。内心の動揺は隠せていた……と思う。

 

 山吹の装いは、実に……えー、なんというか、コケティッシュ……いや、フェミニン……えーっと、とりあえず僕の中には女性のファッションを形容する語彙がないのでなんとも言えないが、清潔そうな白のブラウスの上から上品なベージュのカーディガンを羽織り、下は淡いパステルピンクのロングスカート、その姿はさながらいたずらな春の精霊が立ち現れたかのようなそんな風情である。


 ……いや何を考えているのだ僕は落ち着け相手はあの山吹菫、寸鉄で人を刺すのが至上の喜びでその頬には常に嗜虐的なうすら笑いを浮かべている恐ろしい後輩であるぞ……!

 

 それにしても、事前に立てた予想が粉々に粉砕され僕はもう瀕死だ。当の山吹はそんな僕の様子を座るでもなく見下ろしている。やめろ、僕の私服姿を見てニコニコするんじゃない。


「そういえば、先輩の私服姿を見るのは初めてです。なんだか新鮮ですね」

 

 あくまで楽しそうに笑う山吹に、僕はいつ「それにしても先輩、その服、まるで猿が必死に人間の振りをしているみたいですね」などと容赦ない批評が飛んでくるかと気が気ではない。

 

 そうか、山吹の今日の目的は本を返すことなどではない。僕の慣れない私服姿を嘲笑うことこそが真の目的だったのだ……! と考え出す僕の頭にもう常識なんてものはなかった。


 けれど山吹は「先輩にしては良い趣味です。似合っていますよ」なんて優しげな言葉をかけてくるばかりで、僕も「あ、ありがとう……?」とビクつきながらも応える。


「…………」


 そして生まれる謎の間。山吹は立ったまま襟元やスカートの裾を整えたりしている。何待ちなの?


「あー……えっと、山吹、座ったら?」


 いつまでも立ったままニコニコとこちらを見る山吹に堪えきれずそう促すと、彼女は一転して不満げに頬を膨らませた。え、何?


「……その前に先輩、何か言うことはないのですか?」


 えぇ……何かってなんだよ……? よくわからないけどとりあえず謝っておけばいいの?


 何もわからず震えることしかできない僕に山吹は嘆息する。


「わたしが先輩の私服を見るのが初めてということは、先輩がわたしの私服を見るのも初めてということですよね? 何かご感想は?」


 ちょい、と気取った仕草でスカートを摘んで小首を傾げる。その姿は常に似ず可愛らしい所作で僕の脳はまったりと停止する。

 

 沈黙を維持する僕に山吹は続けた。


「これでも結構悩んだのですよ。最初は先輩がぐうの音も出せない程お洒落にバッチリ決めて行こうと思ったのですが、あんまり気合いを入れて『先輩相手にめちゃくちゃ頑張ってお洒落している』なんて思われるのも癪だし、敢えてシンプルな格好にしようか、なんて」

 

 あれ、なんか僕の予想通りじゃないか? とつい山吹を見つめると彼女はうすく浮かんだ笑みを深くする。


「――と、ここまでは先輩も読んでくるかな、と思いまして。なのでわたしの思考をトレースできたと思い込んで油断している先輩を驚かせてやろうと、逆にお洒落して来たのですよ」


 あまりにも僕の思考をトレースされていて何も言い返せなかったが、沈黙こそ雄弁、とばかりに山吹はその顔に春めいた微笑を浮かべる。


「それで、どうですか? わたしの私服姿を見てからろくにしゃべれていない先輩?」


 ここまで言われてはもう僕に逃げ道はなかった。というかいくら逃げても山吹にはもう僕の考えなんて読まれている気がする。


 だから今日彼女を見た瞬間から思っていたことを素直に口にするしか、僕には道が残されていなかった。


「…………似合っている、と思うよ」


 自分の装いを見せつけるように立つ山吹から目を逸らしながら言うと、


「ぅふふ」

 彼女にしては珍しい、ひどく無邪気でくすぐったそうな笑いが零れるのが聞こえた。


「……もういいから、本を返してくれる?」


「そうですね――あっ」

 

 露骨に話題を逸らした形になったが、ようやく山吹も座る。が、鞄を開けたところで小さく「やっちまった」みたいな声を上げた。おい、もしや……。


「……えっと、その、どんな服を着てくるかということばかり考えていて、本を持ってくるのを忘れてしまいました」

 

 こともなく言い放った山吹は唐突にメニューを吟味し始めた。俯きがちのその顔をよくよく見ると頬がうっすら赤らんでいる。

 

 ……どうやらいっぱいいっぱいだったのは僕だけではなかったようだ。

 

 本来の目的が失われてしまった今、僕としてはもうコーヒーカップを傾けるくらいしかすることがなかった。

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