第3話 幽霊と作戦を練る
我が姉の大学に来た。何故か華子もついて来ている。
華子の行動範囲は積高校舎内に限られると思っていたのだが違ったらしい。彼女によれば彼女は僕にとり憑いているから僕の行くところであれば一緒に動けるのだそうだ。僕は悪霊にとり憑かれたというわけだ。なかなか素敵である。
「あなたのお姉さんは大学生なの?」
「院生だね」
「それは、何をする人?」
華子はずっと学校にいたからか、あるいはお嬢だからかやや世間知らずで、僕に対して質問攻めをやっている。僕の周りを手持ち風船みたいにふわふわと動き回っては何かを見つけて問いかけてくる。僕以外の人間に彼女は見えていないはずなので、僕は不機嫌そうにぶつぶつ独り言を吐く不審者になっている。つまりはいつも通りだ。よく考えたら華子がいなくてもそんな感じであった。
「院生は、ものを調べて論文を書く人」
「学者さんね?」
「その見習いといったところかな」
「どの建物にいるのかしら」
僕も来るのは初めてなのでキャンパス内をきょろきょろと見回すほかない。
幸いにも地図を見つけたのでこれを見ながら考えることにした。
「この文学部棟というところに、院生用の部屋があるらしい」
「なら、そこにいるのではなくて?」
「あるいは、先生の部屋に入り浸っているかも知れない」
「どっちも行ってみればいいわ」
「喫煙所が少ないね」
「今関係ある?」
「姉さんは喫煙者なんだ」
文学部棟に近い喫煙所は一つだけである。思うに文学部棟の中を探しまわるよりは喫煙所で張っていた方が楽なのではないか。我が姉には困るとすぐに煙草を吸う癖があり、そのときは綺麗な空気に対する怨念を持つ妖怪のごとく煙をまき散らす。たぶん十分に一回ぐらいは喫煙所に来るだろう。
僕らは喫煙所に向かった。
そもそもどうしてこんなところまで来たのかと言うと、華子からとある提案を受けたからである。華子は人に触れたい。僕は幽霊の肌に触れたい。となれば、僕と華子が何らかの手段で握手できれば万事解決である。彼女の説の合理性を僕は認めた。
具体的にはどうすればよいかというところで、華子は僕の右手に目をつけた。僕の右手は失われているがその霊魂がどうなっているのかという問題は考察の余地がある。たとえば僕がある穏やかな昼下がりに犬などに喉笛を噛み千切られて死んだとして、犬への憎しみから怨霊になったとする。その場合どういう姿の怨霊になるのか諸君も考えてみてほしい。僕は喉笛がズタズタの霊になるのだろうか。あるいは綺麗な喉笛の霊になるのだろうか。そして右手はちょん切れたままなのだろうか。
答えは不明だが、不明ということはつまりどちらでもあり得るのである。僕の右手の霊魂が無事だとすると、この右手を華子と同じように霊体として召喚できれば、僕は右手だけ幽霊の人間になれるかもしれない。
そうなったらかなり格好良い。
加えて、霊体の右手を得たならこれはひょっとすると、僕は幽霊に触れられるかもしれないのである。少なくとも華子と僕の右手は存在の形式が同じになるはずなので、であれば僕の右手が幽霊たる彼女の肌に触れられるのは道理である。
姉の大学に来たのは右手を霊体化する方法について相談するためである。妙な相談だが我が姉なら変てこな話にも乗ってくれるだろう。僕は姉の変人性を高く評価している。僕がちょっと変なことを言ったところで、それくらいでは我が姉にはかなわない。
喫煙所についた。
「ぬわっ。どうした尚太くん」
姉がいた。寒空を殺伐とした目つきで威嚇しながら煙草を吸っていた。
僕を見て驚いている。
「ほらね。もういた」
「そうね。よく似ている」
華子の評価を聞いて僕は首をかしげた。
少なくとも僕は喫煙者ではない。心外であった。
華子によれば積高七不思議は代々語り継がれるにつれてアレンジをされている。華子が主役となる「トイレの花子さん」は元々は七不思議のメンバーですらなかったらしい。これが七不思議に加わったのは華子の珍妙な凍死事件よりあとのことである。そしてさらにそのあと、華子は霊体を得ている。
この時系列から考えるに、怪談として噂されているという状況こそが霊体を得る条件なのかもしれない。であるとして、僕の右手を流行りの怪談にすることができれば、僕は右手の霊体を得られるという理屈になる。以上が華子の意見である。僕としてはどちらかと言うと華子の霊体化は彼女の怨念が原因だと思うが、華子の説を検証してみるのも悪くはない。こういうのは考え込むより次々とやってみた方がよいものである。
まずは、怪談「浮遊する右手」的な話を捏造する。右手だけが出現して子供を脅かすような怪談である。それを僕が女子剣道部員に話し、しかるのちに華子が実際に生徒を脅かす。すると、この怪談が女子剣道部内でナウなブームとなる。ここまでできればあとは右手の霊体化を待つのみというわけである。
懸念事項としては、これをやると女子剣道部内で僕への不信感がつのる気がするというのがある。僕のアリバイは僕が授業に出ている間に華子に犯行をやらせれば工作できる。でも仕掛けなどでやったなどとあらぬ疑いをかけられたら、僕の悪い噂は剣道部のみならずたちまち女学生全体に広まることだろう。そうなればもはや怪談どころではない。再度自殺を検討しなければならない事態もあり得る。
あるいは、彼女たちはそれが僕の趣向だと、まあ実際には僕のではなく華子の趣向なのだが、「わかったうえで」乗ってくれるかもしれない。女子剣道部はこの時代に怪談で盛り上がる奇特な趣味人集団である。この予想はやや楽観的だがあり得ない未来ではない。
まあ、いいか。大丈夫だろう。
僕は楽観と自暴自棄を長所短所欄に書くタイプの人間である。
さて、我が姉への相談のため僕と華子は大学に来たのであった。相談事項はつまり具体的には、右手を主役にできそうな怪談はないか、ということである。それを問われた姉は煙草の火を唇で空に向けながら考え、煙が目に入って「うぐ」とうめいた。よくある光景である。華子が反応に困っているけど、正解を言うとこれはスルーでよい。僕は真顔でスルーした。
「まあ、調べて、いくつか候補を出してみるよ」
姉が一旦の結論を出す。
「ありがたい。お願いします」
「何に使うの?」
「僕の右手を怪談にする」
「何だそれは。面白そうだな」
「それはそれとして」
あらたまって姉と向かい合う僕に対し、姉は怪訝そうに片眉をつり上げた。
いかに僕が血気盛んな男子高校生といえど、相談だけのために大学まで来たりしない。そんなのならメールや電話で済む話である。わざわざ来たのは、面と向かって話したいことがあったからである。
「姉さん」
「なになに」
僕は右手首を姉に向ける。
「これをさわってみてもらえますか」
「え。何。え」
姉の口が薄く開く。唇から煙草が垂れ下がって結局地面に落ちた。姉の名誉のために言っておくが、まだ涎は垂れていない。
「僕はこれをさわられるのは嫌なのです。姉さんの視線にも辟易していました」
「う。ご、ごめん」
「でも、姉さんのことを避けるのも嫌なのです。姉弟仲良くしていたい」
僕の右手首を姉は獲物を睨む猫のように凝視している。
どうも僕の話を聞いていなさそうなのが悲しい。まあそういう人なので仕方がない。
「だからこれは仲直りの握手です。僕の右手を握ってください」
「…………いいの?」
「今はこれが僕の右手です。これに慣れなければならない」
姉は生唾を飲んでいる。
僕がこれほど真摯に姉弟愛を表明しているのに、姉は人体欠損に対する嗜好心で頭がいっぱいみたいである。姉にとって僕は「欠損」というジャンルの擬人化に過ぎないのかもしれない。
「あの」
姉が問う。
「カメラを持ってきてもいい? あと測量器具とか……色々」
「…………まあ、はい」
「すぐ戻るから。ほんとにすぐ戻るから。絶対待っててね」
姉は足元をふらつかせながら文学部棟に向かった。何度も僕の方を振り向いている。まるで野生動物のシャッターチャンスを逃すまいとする写真家のようである。野生動物ではない僕は言われれば待つ。つまり僕こと制服姿の高校生は大学のうす汚い喫煙所で待つことになる。なお時間は昼過ぎである。僕の同級生は授業を受けていることだろう。
「気持ちが悪い人だな」
僕は姉への評価をあらためた。
「あなたが言えたことではないと思う」
華子の冷静な指摘を受けた。
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