第2話 幽霊を透り抜ける

 寝返りを打ったらベッドから落ちた。

 いや怪談ではなくただのドジである。

 身体が落ちかけるのを感じた僕はとっさにどこかを掴もうとしたのだが、これが良くなかった。何しろ僕には右手がないのだから伸ばした右手首では当然どこも掴むことなどできない。僕は無様にころげ落ちた。

 痛みにうめきながら天井を眺めた。

「なさけねぇ。……死ぬかぁ?」

 声音に涙がにじんでいる。右手の不自由でドジを踏むと本当に気が滅入る。

「尚太(ショウタ)くん。大きい音がしたけど、大丈夫?」

 隣室の姉に声をかけられた。

 僕は独り暮らしだったのだが右手の件を補助するために姉が引っ越して来てくれている。この姉は常軌を逸した人物である。幼い僕の寝物語は彼女の怪談語りであったという事実から鑑みて、僕が高校生にしてはやや怪談通でかつクラスで孤立し続けてきたのはこの姉のせいである。現在の彼女は大学院まで進学してそういった研究をしているらしい。なお、常軌を逸している点はそこではない。

 僕が左手と右肘でどうにか起き上がろうともがいている間に、我が姉はズカズカと上がり込んでくる。まあ、まあ、これについては返事をしなかった僕が悪い。

「大丈夫だよ。姉さん」

 僕は今さら返事をする。

 背後から僕の両脇に姉が腕を入れた。僕は子どものごとく抱き起こされる。

「うおっ」

 僕は当然悲鳴を上げたのだが、姉はその悲鳴に頓着しない。

「どうしたの? ころんじゃったの?」

「いや、寝返りを打ったら、ベッドから落ちた」

「えぇ……? そんなことある?」

 姉の心ない言葉に僕の表情は虚無そのものとなる。

「あります。そういう人もいます」

「そう……」

 姉は興味なさそうに相槌を打つ。これはよくある話なのだが、僕が何か面白いことを言わない限り、山の天気のごとく気まぐれな姉はすぐに会話への興味を失い、何か面白い景色がないか視線をさまよわせる。近ごろの姉の関心事項について僕には心当たりがある。

 姉は今たぶん僕の右手の欠損を盗み見ていると思う。人体の欠損を見ると無性に興奮するというこの嗜好こそ我が姉の異常な特徴である。僕が右手を失う以前はしばしばその嗜好について語り聞かされたものであった。今となっては、時おり熱烈な視線を右手あたりに感じはするが、流石に多少の遠慮も感じる。

 僕はこの右手のことはできるだけ気にせず暮らしていたい。言及すらしたくないのだ。その点、姉の視線は本当に嫌なのである。僕は姉のことが以前は割合好きだったのだが、この視線があるので最近はあんまり会いたくない。

「姉さん。着替えるから」

 部屋から出て行ってほしい。着替えるから。

「手伝うよ」

 姉が申し出る。

「いい」

「わかった」

 姉が引き下がる。

 姉が視線をそらした段階で僕はもう着替え始めていた。正直言って別に裸をみられるのは構わないのである。僕の上裸や全裸なんか姉には何度も見られている。見られたくないのはそこではない。

「尚太くん」

 呼ばれて僕は姉を見た。

 姉は部屋の扉を閉めかけて隙間から控えめに僕を見ている。

「死んじゃダメだよ」

 姉が言った。

 なるほどね。独り言を聞かれていたらしい。

「死なないよ~」

 僕は飄々とこたえておいた。

 なんと言っても、右手を失っただけである。

 世の中にはいろんな人生がある。もっと辛い境遇はたくさんあるのだ。

 こんなのは、死ぬようなことじゃない。



 学校には行くようにしている。授業には出ていない。右手がないとノートを書けないし計算過程をメモすることもできない。不器用な左手では何もかもがおぼつかない。そもそも他人の目が気になる。右手をジロジロ見られるのは御免である。チラチラ見られるのだって嫌である。変に気を使われるのもうっとうしい。

 そういうわけで僕は再び旧校舎に忍び込むのであった。

「本当にすぐ来たのね」

 例の手順で華子を再召喚したところ、彼女は威圧的に腕組みをしている。

 僕は長話の予定があるので椅子に座っている。

「君がなんで、触れられるのを嫌がったか考えた」

 僕が語り始める。

 幽霊にはそもそも触れられないとすると、接触を嫌がる理由はないはずである。接触を嫌がるということは実際には接触可能なのではないかと僕はいぶかしんだ。だから昨日は「さわれるの?」と問いかけたのだ。華子の応答は「うるさい」であった。

 接触可能なのだとしたら単に「さわれる」と肯定するのが通常の回答であり、「うるさい」とは言わないと思う。もちろん、接触可否にかかわらず見知らぬ男に近づかれたくないというケースも想像できるが、その場合は「関係ない」という回答が自然である。

 華子は質問自体を拒絶している。つまり、その問題への言及を嫌がっている。

 そういった心境について、僕には思い当たるものがあった。

「私の質問に答えなさい。あなたは誰」

 華子が僕のセリフに割り込んで僕の出鼻をくじいた。

「なるほど」

 僕は左手で鼻頭を掻き、脳内では話を組み立て直している。

 では質問に答える形で話してみよう。

「僕は積高の二年生で、趣味は怪談を聞くことだ。君の噂を聞いて、面白そうだから調べてみた。君はこの倉庫で亡くなった華子さんだと思う。だから僕は、ここに呼び出せば君を捕まえられるのではないかと思った」

「何のために?」

「幽霊の肌に触れるために」

「…………はぁ?」

 華子は顔をしかめながら僕からやや距離を取った。

 幽霊をドン引きさせるのは初めての経験である。

 ここまで読み進めてくれた同志諸君は僕の嗜好に共感してくれているものと思うので心強いが、会って間もない女の子に僕のやや特殊な嗜好を理解してもらえるとは思えない。この点については深堀りされぬよう早々に話を進めるのがよさそうである。

「その件はまあよいとして」

「いやよくないけど……」

「この右手の話をしよう。たぶん気になっていることと思う」

 華子は一旦黙ってくれた。興味を持ったみたいである。

「別になんのことはない。ただ事故で潰れただけなんだ。でも、これが結構、僕には打撃でさ。いやもちろん、こんなのは大したことじゃないってわかっている。だって左手は残っているしね。やや不自由にはなるけど、これで人生おしまいってわけじゃない」

 人生が終わっているのは華子の方である。配慮が上手な僕はその点には触れない。

「僕の右手は、他の人の右手に比べればさして重要じゃない。僕はスポーツをやっていないし、楽器もやっていない。習字とかもやっていない。僕の趣味は怪談ぐらいのもので、これは左手だけだって続けられる」

 右手なんかどうでもいいと、僕はいつも僕に言い聞かせている。

 僕はこれから、いつもと逆のことを言う。

「でもさ。大事だろ。右手は」

 僕は僕の右手を眺める。もちろんそこに右手はない。

「僕はいつも、頬杖を右手でついていたんだ。何かを指さすときには、右手で示していた。犬を撫でるときも右手だ。眼鏡をかけ直すときも。誰かと握手をするときも。全部右手でやっていた。それが今はできない」

 華子の方をちらりと見た。突然の自分語りに彼女は戸惑っている様子だが、一応黙って聞いてくれている。なかなか律儀な幽霊である。僕は彼女の古風なつつましさに甘えることにして話を続ける。

「もし右手が残っていたら、将来やっていただろうこともある。たとえば、卒業証書を受け取るとか、煙草に火を点けるとか、ビールジョッキで乾杯するとか。あと、幽霊の肌に触れるとか」

「いやそれは……」

「それももうできない。僕にとっては本当にショックなんだ。人生の価値が半分失われたような感じがする。いっそ死んでしまおうかって、何度も考えている。考えないようにしているけどね」

 僕は左肘を膝に置き左手で頬杖をつく。やや安定性に欠ける。

「それで、ここからが本題なのだけど。僕は近ごろ右手を使わないようにしている。右手というのはつまり、この丸まった右手首のことだ。何故かというと」

 僕は少しの間を置いて深呼吸する。額には汗をかいている。

 緊張しているのである。この先は普段なら言及したくないことなので勇気が要る。

「何故かというと、これがどこかに触れると、実感してしまうからだ。僕にはもう、右手がないのだということを。僕はこの、ちょん切れた右手首がどこかに触れるのが、たまらなく嫌なんだ。そんなところで触覚が途切れているってのが、気持ち悪くてならない」

 いやはや長かったがようやくここまで喋れた。これで僕の話は終わりである。

 ここからは華子の話である。

「要するに僕が言いたいのは、君もそうなんじゃないかってことだ」

 僕が悠然と立ち上がる一方で華子は余裕なく唇を噛んでいる。

「華子さん。君はもう死んだんだ。もう誰にも触れられないんだよ」

 これが僕の考えである。彼女は死んだのに死んだことを受け入れられていないのだと思う。だから接触を嫌がっているのである。彼女が何かに触れようとして、あるいは何かが彼女に触れようとして、触れることなく透り抜けた場合、自分がすでに死んでいるということを実感してしまうからである。

 僕は右手首を彼女に近づける。彼女はビクと怯える。

 これは一種のリハビリである。僕の右手はもうないし、彼女の身体ももうないのだ。今さらそれはどうしようもない。事実を受け入れなければならない。そうしなければ一歩も前に進めない。

 彼女は震えている。僕だって震えている。恐ろしくて仕方がない。

 あっけなく、僕の右手首は彼女を通過した。何しろ彼女は幽霊であるから触れることはできない。それは当たり前の常識である。

「わかっています……」

 彼女がそう言った。

「だよねぇ」

 僕も同意した。二人の声は震えているし、身体だって今も震えている。

「わかっていてもというやつだ」

 僕は深呼吸をしたあとで自分の右手首を左手でぎゅっと掴んだ。

 そこに右手はもうないのだ。

 それはもちろんそうなのだ。

 でもやっぱり、あってほしかったなぁ。

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