友人が熊に食われた話

ヤギサンダヨ

友人が熊に食われた話

 新緑のこの時期の低山ハイクは、なかなか良い。今までは、主に3000メートル級の夏山をメインに登ってきたのだが、少し年を取ったためかテントを背負って四泊五泊というトレイルがおっくうになったこともある。去年ごろからより手軽な、ガイドブックでは「初心者向き」などと書かれている低山を好んで登るようになった。装備もごく軽装で、かつてのようにコンロだのロープだの無線機だのといったアイテムは持たない。そういった物が必要ない日帰り登山が年齢に合っている、と私は考えるようになったのだった。

 そんなわけで、GWが開けた先週の土曜日は、軽く西沢渓谷をハイキングしてきた。行程10キロ、ほんの4時間程度の散歩である。もうたくさん、というほど数々の滝を見て、帰り道はかつての森林軌道をたどって降りてきた。この程度なら翌日筋肉痛になることもない。それどころか、血行がよくなるからか、平日が普段より調子良かった。そこで、今週も少し歩くべぇと、今度はちょっと距離を増やして車山高原周回ルートを歩くことにした。車山から八島湿原に下るコースなら2時間半の超初心者向きで、さすがに物足りない。そこで、逆走することにして、自力で湿原から物見岩、蝶々深山を越えて車山の急坂を登り、裏から降りて、湿原の反対側をたどって駐車場に戻るという5時間のコースを設定してみた。設定といっても、シャワーを浴びながら思いついただけで、ハイキング雑誌の切り抜き以外登山地図さえ用意していない。最高標高は1925メートルだから、それなりに準備はしていくが、無雪期のこの時期、晴れていればやはり初心者向きと言えるだろう。

 先週の西沢渓谷は、前日の夜に思いついて出かけたため、単独行となったのだが、今回は一応友人のI氏を誘ってみた。I氏とは穂高も剣も供に登った仲だ。剣から三日間かけて欅平まで歩いた時は、途中で熊に出会ったりもした。かつては職場が同じだったこともあって、長期休みごとに北アルプスに出かけたものだ。I氏に電話をすると、前日夜の急な誘いにも関わらず、既に定年退職で退屈していたのだろう、案の定、すぐに話に乗ってきた。

 翌朝2時に川越のI氏の自宅に4WDで迎えに行く。登山は早起きが当たり前なので、これはいたって普通の集合時間だ。当然、圏央道、中央高速ともにガラガラで、途中談合坂SAで朝御飯を食べたにも関わらず、長野県の八島湿原駐車場に着いたのは5時過ぎだった。この日は、さすがに一番乗りだったが、6時、7時ともなれば駐車場は満車になるはずだ。登山者たちが朝早いのには理由がある。昼過ぎまで山頂付近でウロウロしていると、これからの時期は雷に合うことがあるのだ。だから、遅くとも2時には下山するか山小屋に入る、これは夏山登山の常識と言ってもいい。本格的にアルプスを歩く時などは、いつも6時にはスタートしていたものだ。

 私とI氏は、まだほの暗い中、登山靴に履き替えて、装備を整え、車をロックしてまずは八島湿原をぐるりと一周する木道を歩きだす。私はフリースの上衣に、下はスボーツタイツに短パン、I氏は黒い長袖シャツの上に速乾性の白いTシャツを重ね、意外と若々しくファッショナブル。でも、下はチノっぽい登山用長ズボンでそれなりである。ガレ場を想定して二人ともシューズは少し大げさなハイカットのトレッキングブーツである。ちょっと風が冷たかったため、二人ともグローブを着けた。登山道入口では恒例の、「熊出没注意」の看板が、ヘッドランプに浮び上がる。

 私「こんな開けたところでも出るンすかね。」

 I氏「最近はどこの登山道でもこう書いてあるから。」

 私「環境が変わってクマが人の生活圏まで降りてきているということですね。」

 I氏「いや、我々がクマの生活圏を侵してるンでしょ」

 私「剣の時は、マジびびりましたよ。けっこう近かったから」

 I氏「でも俺が振り向くと、もういなかったんだよな。」

 私「後ろを往復したんですけどね」

 I氏「写真がないのが残念。」

 そんな会話をしているうちに、約30分で湖畔のヒュッテの廃墟に到着した。間もなく山中の遅い日の出である。ただ、森の中はまだ薄暗い。I氏は腹が痛いといって、何やらたくさんのボケットティッシュを抱えて、小川の方へ降りて行った。

 私「熊が出ますよ」

 I氏「何、ほんのちょっとそこまで」

 そう言ってヘッドランプの光芒が木道を降りて行った。I氏がいなくなると、急に湿原に響くカエルの声が大きくなった。湿原に流れこむせせらぎの音と、カエルの大合唱以外には何も聞こえない。深い山に一人取り残されたような不安感に襲われる。湿原はさっきよりは少し明るくなって、水をたたえた箇所に池塘が浮いているのが見える。すこしモヤも立っているらしい。

 そもそもI氏が腹を壊すというのは珍しいことで、だいたい腹が痛くなって登山道にお土産を置いていくのはいつも私なのだ。私は大の辛党で、何にでもデスソースをかける、三食デスソースを加える、という生活習慣だから、年がら年中腹を壊している始末だ。その私は、今日はSAでちゃんとトイレを済ませてきたため、今はまったく問題がない。待ち時間、携帯灰皿を取り出して一服して、I氏の戻るのを待った。10分、そして15分、ちょっと長過ぎないか。森の中もようやく薄明るくなってきて、私はヘッドランプのスイッチを切った。

 二本目のタバコの火を消して時計を見ると、もう20分以上経過している。いくらなんでもおかしい。何かあったか。私は大声でI氏を呼んでみた。誰もいない湿原に、私の声が響く。もっとも、カエルの声とせせらぎの音にかきけされて、I氏のいるだろう小川のほとりの茂みでは聞こえないかもしれない。もう一度、さらに大きな声で呼んでみる。が、返事の代わりに聞こえるのは、カエルの鳴き声とせせらぎの音だけだ。

 と、その時、かすかに悲鳴のような声が聞こえた気がした。やはり何かあったか、まさか、熊?朝早いということを考えると、その可能性も低くはない。単独でせせらぎの方まで降りていくというのは、今考えれば危険である。でも、まさか・・・。

 すでに30分経過した。私は再びヘッドランプをスイッチをひねり、念のためにピッケルを片手にして、I氏が降りて行った木道をたどって行った。用を足すだけだからそれほど遠いところまで行ったはずはない。すぐに、見つけられるだろう、と思ったその時だ。木道に何かが落ちている。黒く太長い・・・・人の・・・・腕!?

 人間の片腕が木道に落ちている!ほの暗い森の中、ヘッドランプに照らされて、木道に残されているそれは、明らかにI氏の右腕だ。黒の長袖シャツもろとも切り落とされたように!しかも、木道には赤黒い肉片のようなものがベットリとぶちまけてある。

 「く、熊だっ!」

 私は咄嗟にピッケルを構えて熊の襲撃に備えた。もう雪はないだろうと思いつつ、念のためにサビついたピッケルを携帯してきたが、熊の襲撃には多少の効果があるだろうとも思っていたものである。まさか、本当にこんなことに・・・・。熊はI氏の胴体を引きずって行ったか・・・。そういえば木道に転々と赤黒い染みが残っている。一度餌にありついたクマは、同じところに戻ってくる、と吉村昭氏の小説で読んだことがある。腕だけが残されている以上、I氏の生存は極めて期待薄だが、もし熊を撃退することができれば、I氏を探して救助要請をすることで場合によっては救うことがでるかもしれない。いや、今はI氏のことではなく、自分の身にも危険が迫っているのだ。

 その時だ。木道右手下の草むらがガサリと動いた。ヘッドランプの光を向けて、ピッケルを掲げた。もし、熊なら、まずはピッケルで一撃を加えるのが、今できる最善の行動と言える。震える両手に神経を込めた。草むらの中からガサリガサリと近づいてくる気配がある。

 「いやー、ごめん、ごめん、遅くなって」

 なんと、現れたのはI氏である。

 I氏「キレの悪いウンコで、なかなか立ち上がれなくて」

 私「ご、ご無事でしたかっ」

 I「あれ、どうしたの。ピッケル振り回して。」

 私「それより、右手は・・・、あ、あ、ある」

 I「ああ、あれ?トイレのついでに持ってきたトマト洗おうと思ったら、木道踏み外してころんじゃったんだよね。で、抱えてたトマト4個、君と二つずつね、こけた拍子に潰しちゃって。右手のアームカバーと、グローブがグチャグチャよ。」

 私「アームカバー?てっきり、腕以外は熊に食われたのかと・・・・」

 I「そう、あれ便利なんよ。長袖シャツだとすぐ脱げないでしょ暑い時。で、妻が日焼け対策に使ってたやつ借りてきた。で、トマトだらけになったから、下の小川で洗って、乾かそうと思って伸ばして置いといたの。便所するあいだ。」


 夜が明けて、その日は見事な五月晴れの一日となり、素晴らしい車山登山を予定通り無事に終え、昼過ぎには我々は帰途に着いた。

 うん、それだけ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

友人が熊に食われた話 ヤギサンダヨ @yagisandayo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ