曇りプラスチックの女

ヤギサンダヨ

曇りプラスチックの女

 世間では「アゲマン」と言うそうですね、なんとなく下品な感じの言葉ですが、そう、男性をどんどん立派に出世させていく女性のことを。僕は独身ですが、実は「アゲマン」の妻がいます。いや、説明しにくいし、信じてもらえないだろうけど。

 もう3年ほど前のことです。遅くに帰宅してシャワーを浴びていた私は、明日の商談のことで頭がいっぱいでした。何しろ会社の命運をかけるような取り引きを任されて、そりゃ、今まで幹部だった人間がひょんなことから首になって、代わりに私が大型プレス機械部門の責任者に急に抜擢されたから仕方なかったのですが。それで、いつものように頭を洗って、髭をそって、機械的というか自動的に身体も洗って。その時です。ふと視界の済、というかバスルームの扉の曇りガラス越しに、人気を感じたような気がしたんです。いえ、さっき言った通り僕は独身です。部屋には誰もいるわけがありません。疲れたな、とその日は軽くビールを一本飲んだきりで寝てしまいました。

 翌日、商談の席で納品するべき大型プレス機について交渉を進めていたのですが、最終段階になって、私はどのくらいの額を提示すれば相手が納得してくれるのかまったく見当がつかなかったものですから、相手の出方を見て判断しようと構えていました。その時、声がきこえたんです。いや、頭の中で響いたとでもいいましょうか。数字です。「一台6000万以上」と。その次の瞬間に向こうが提示してきたのが5800万でした。この額でも十分なような気がしましたが、先ほどの声が気になります。そこでダメもとで、6000万以上が当然だろうという素振りをして、それでは商売にならないからと席を立とうとしたところ、相手がでは、ぜひ6100万でと申し出てきたため、私は座り直して鞄から書類を取り出し、相手のサインを求めました。

 結果的にこの取り引きは大成功で、このあとは海外からもどんどん注文が入り、会社は黒字転換したのです。それはよかったのですが、その夜のことですよ。また、いつもの通り私はワンルームの自室に帰って、その日は同僚と少し飲んでから帰宅したので、シャワーを浴びてすぐにベッドで休むつもりで浴室に入りました。いつものように機械的、自動的に頭を洗い、髭を剃り・・・とその時です。ちょうど浴室の扉とは反対側の鏡に向かって髭を剃っていた私は、鏡越し、さらに扉の曇りガラス、いや、安もののユニットバスですから、それはガラスではなくプラスチックのものでしたが、とにかくその曇りプラスチック越しに、人影を見たのです。一瞬ゾクッとしましたが、そんなバカなと思い、これは少し飲みすぎたぞと、振り返って曇りガラスを確認してみたのですが、当然、人影などあるわけはありません。さっさと身体を洗い、私は浴室を出ました。当たり前ですが、そこにはもちろん誰もいませんでした。



 それから半年ほどして、仕事もようやく慣れて、そんなことで心に余裕ができたためでしょうか、私は年下の経理部のある女性と仲良くなり、何度か食事を重ねるうちに、相手の積極的なことももちろんあったのですが、結婚ということが頭に浮ぶようになってきていました。クリスマスイブの夜のこと、彼女と食事をして、12時ごろ帰宅して、例によってバスルームへ。この日はシャワールームに入るなり、なんとなくいつもと様子が違うというか、空気が違っていたのですが、それが何だかはよく分かりませんでしたが。頭を洗い初めてシャンプーを泡立てた瞬間に、またあの声が聞こえたのです。しかもはっきり、女性の声で。「絶対にやめた方がいい」。反射的に私は浴室の扉を振り返りました。人影です。髪の長い、明らかに女性の影です。ゾッとすると同時に、シャンプーが目に入って、私はあわてて目を閉じて急いでシャワーで頭と顔を洗い流しました。そして目をこすりながらもう一度扉を凝視したのです。ただの曇りプラスチックです。洗面所の蛍光灯が透けて明るく見えるだけで、人影は消えていました。

 この時は既に、たまに聞こえるあの声の主が幻の人影であることに、何となく気づいていました。とにかく、前回のこともありましたから、私はいったん結婚のことは保留にして、少し冷静に時間をかけて考えて行こうと思いました。この考えは、ある意味当然だったのです。彼女の押しは少し強すぎるし、焦っているようなところもありましたから。

 それから1週間後、彼女の妊娠が明らかになりました。いえ、私は身に覚えがありませんよ。つまり、彼女は他の男と関係を持って、その男の子どもを身ごもっていたのです。ところが男との関係がこじれて、子どもをどうすればよいかということになり、その手っとり早い方法として誰かと結婚してその人の子どもとして産んでしまうというやり方を選んだというわけです。そして私が選ばれたというわけで、ただ、それだけのことだったのです。しかも、後で分かったことですが、彼女の父親は会社経営に失敗して、多額の借金をしていました。もちろん、そんなことは彼女は一言も言いませんでしたけど。

 以来、人生の分岐点というか、危ないところで、あるいはチャンスにおいて、私は必ず彼女の声を聞くようになりました。ただ、人影があらわれるのはバスルームの曇りプラスチックだけです。勇気を振り絞って扉をバッと開けたこともありますが、誰かがいたなんてことはありません。いたら、気絶しますよ、いくら僕でも。え、それだけでも十分気味が悪いって?とんでもない。もはや彼女は私にはなくてはならない存在です。いつも私を見守ってくれていて、正しい判断をしてくれるのですから。だから僕は独身でいいんです。他の誰かと結婚しろって、もし彼女がそう言えば従いますけど。

 あ、そうそう、明日一緒に競馬に行きませんか?第一レースは5―3ですよ。

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