私を愛したスパイ(現代ドラマ)
彼は名をゲイルと申しました。碧色の瞳あざやかな、美貌の青年でございました。
ジャーナリストとして日本の地を踏んだのは最近のこと。ですが自国とは異なるであろう環境の中、語学の堪能さと柔らかな物腰を長所に精力的な活動を展開、本国において、一定の基盤を築き上げたのでございます。
その姿勢に方々はみな親近、確かな信頼が表れておりました。年若く華麗な外見、ましてや謙虚な態度、軋轢を生む要因は、贔屓目にも見当たらなかったのでございます。
――その、おかげでございましょう。彼が非公式的に送られた「スパイ」であること、金銭欲に爛れた国会議員から国家情報の吸収を行うのが本来の仕事であることを、猜疑する人間は絶無でありました。
訓練された笑顔に訓練された人心掌握。心の根底をけして覗かせない用心深さ。分離した二つの顔の評価は、時間と共に二国の間で等しく高まりました。それは正に充溢でした。本国からの信頼、下愚な議員の与える自尊心が、彼の二重生活を豊かに支えたのです。
そんな、折でございました。彼と私は、邂逅を果たすことと相成ったのです。
彼が仮初の友人に連れられ、店を訪れたのが契機でございました。それは、僥倖では無いのでございましょう。日本にいる限り彼とは出会う運命だった、そう、不遜ながら私は思っているのでございます。
雑音のうずまく店内、多種な人々が思惟から解放された心地で緩やかに座しておりました。それらを観察の体で眺める彼の顔貌には冷淡の表出など微塵もなく、まるでこれ以上の宝物は無いとでもいうような騙られた様相で友人との友好を深めておられたのです。完璧な所作でありました。誰一人として、彼の裏側に隠された氷塊を見破れる方はありませんでした。
――ですが(これは私の誇りでございます)、その演技の微笑は私によって、一瞬の瓦解を見たのです。触れ合った彼と私。驚愕が目の前の私にも伝わるようでした。芽生えた興味、さらなる愉悦が、彼に意想外の無表情を与えました。それは彼が母国に捨て置いたはずの素の自分に、他ならないものだったのです。
凝結を見た友人の物珍しそうな瞳。視線の集約がございます。機微の確認がございます。そして一瞬間の後、何らかの理解に至ったのでしょう、機嫌を伺うような、あやふやの声音が向けられました。
(どうした、ゲイル? 駄目だった? 口に合わなかったのかい?)
指差される私。高低差のある交互の目線、その後、不安げに私の名は告げられたのです。
(「ラーメン」というんだ。日本では、ポピュラーな食べ物なんだよ)
――ラーメン。感慨深く紡がれる、私の名。彼の既知に置かれた、私。蜜月の日々の、始まりだったのでございます。
(大将、「トンコツショウユ」をください!)
(うまい! 「ミソ」にはやはり「フトメン」ですね!)
日夜、幾人もの方々に賞味されております私ですが、彼ほど私に感嘆し、スープの最後の一滴まで名残惜しそうに含んだ方は記憶にありませんでした。彼ほど私の庶民性を無下にせず、心からの真新しい感心を抱いた方は覚えがありませんでした。
峻烈な仕事ぶりは変わらず、互いの立場を平等であると誤認した議員からおよそ致命的な情報を手中に収め続けたご様子。その情報の送信後、彼は充足を焼き付けるように必ず私を食したのでございます。紹介した友人も呆れるほどの頻度、密度の愛情を、私は頂いたのでございます。
スパイの、彼。ラーメン屋の、彼。現実と、また一方の現実との乖離は寓話にもならぬ可笑しさでございましたが、日常性、非日常性の垣根は、その幸福な相貌の前に意味を成さぬものであったと私は感じたのでございます。
――日本において唯一、人、物ふくめた、唯一の愛、それを一身に拝受したという事実が、なにより大切でございましょう。紛れも無い愛でございました。私は愛、純粋な希求による愛を、物言わぬ口の咀嚼を通じて、受け取っていたのでございます。
風景は、恒久に思えました。時間は、悠久に思えました。ですが日々は連綿と繋がり、過ぎ行き、そして、戻らぬ性質のものであるのです。
――彼の、帰国が決まったのでした。彼の優秀さが暗愚な議員の情報を早足に枯渇させる結果となり、帰国を早める事へと、帰結したのでございました。彼の身分は、次の来日さえも約束出来ぬ、そのような質のものでございました。
表層を変えず、ラーメン屋に存在する美麗。香り立つ湯気が覆うその顔には私のみが感ずるであろう惜別の念、玲瓏さの抜けた悲哀が、確かに見て取れたのでございます。
最後の、一掬い。スープに口づける前、呟かれた何事かの言葉。その言葉は口内の発露に留まり私に届く事は無く、そのまま、彼は振り返らず店を出て、私はそのお姿の再見が叶わぬまま、――今日までを、過ごしたのでございました。
14/05/31 第五十七回 【 私を愛したスパイ 】投稿
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