徳田マシミ掌編集
徳田マシミ
「救助を待つ」という周囲の幻想(現代ドラマ)
垢が浮いた肌からは異臭が立ち上る。艶の無い髪。歯垢に塗れた歯。憧憬の眼差しに晒された制服には皴がより、その効果と清潔さを無残に失っている。私は、そんな自分の姿を新鮮な面持ちで見回した。
日光と世間から隔絶されたマンション内の和室。畳の上にはごみが散乱し、澱んだ空気が室内には充満している。穢れた一室。およそ、経験したことのない状況。その中で私は糸の切れた人形のように、ただ、無気力に座り込んでいた。
母が見たら何と言うだろうか。嫌悪に満ちた目で私を見やるのだろうか。そう思うと、途端に可笑しさが込み上げた。母への反抗に、胸がすく思いがした。
不条理な世界に、私は生かされている。その実感が暗い部屋を跋扈し、新たな自分を創造した。両親の顔は霞み、実存があやふやになる。嬉々としながら、私は孤独に身を横たえた。
目が覚めると、畳敷きの部屋に転がされていた。体はロープで縛られ、口は猿ぐつわで封じられていた。塾での学習を終え、一人、夜道を歩いていたことは覚えていたが、後頭部の痛みに記憶は寸断され、私が未知の部屋にいる理由は、ひどく弱腰な男が姿を現すまで分からなかった。
中年の男は包丁を私の頬に当てながら、たどたどしく経緯を説明した。私への恋慕、自らの容姿に対する劣等感が爆発し、行為に及んでしまったということだった。
私は当然のように抗い、危険を顧みず獣の如く身をよじらせたが、男は私を泣きそうな顔で見つめるだけで、申し訳なさそうに拘束を強化すると、無言で隣室へと姿を消した。
消灯され、和室からは光と希望が失われる。徒労感に苛まれながら、私は自らの不遇を呪い、くぐもった声を必死に上げ続けた。
薄明が畳を照らし、長い時間をかけて、再び闇が部屋を覆っていく。朝と夜、男の在宅時にのみ食事と排泄の権利が与えられ、その自由も男を伴った形でしか受容できなかった。
その恥辱に顔をしかめると、男はいつも泣きそうな表情で私を見据え、身体を大げさに震わせた。男の顔色は行為の罪悪に対する不安のためか日を増すごとに悪くなっていき、遂には行動を抑制された私を監視するように、男は始終、マンションに在宅し続けるようになった。
男の滞留により食事、排泄はある程度自由になり、外出の権利が剥奪されていること以外、生活は最低限の水準を保ち始めた。私に手も出さず、見つめるだけの男は弱く、自らの衝動に後悔の念を持ち始めている。その頃から私は、一種の解放感に自らの身が浸っていることを感じるようになった。
腰弱な男に、私は男が起床している間のみ、拘束を撤廃することを半ば命令の形で要求した。それに対し男は始めこそ拒否したが、強硬な私に恋情を呼び起こしたのか不自然に歪んだ顔で提案を許可し、拘束を外した。手狭な和室に身体の自由が再び到来する。私の精神は浮遊し、生活への感慨が変質したのを確かに感じていた。
真夜中。漆黒の部屋。脳内に、両親の言葉が蘇る。
受験が間近になり、成績の良かった私は一流大学への進学を促され、毎日身を削るように勉強した。神経質な母は多少の下降も許さず、厳しい叱責に、私の心は磨耗していった。
私の道は私の周囲によって形作られ、その道程には周囲が落とした多くの忌避すべき感情が撒かれていた。消耗しながら、正当だと信じ歩む日々。叶わない逃亡への願望に、私の心はいつも苛まれていた。
両親は私が救出を待っていると考えているだろう。その想像は若干だが私の身を蝕んだ。しかし、この暗い和室に存在する無関心という名の温もりに私は浸りきっていた。清潔を強要された体を汚し、自身を破滅に追い込む、その行動は愉悦を与え、私は自らの穢れた体を愛おしく撫でた。
男は私に不潔な身体と部屋を清潔にすることを勧めたが、私は強弁に断った。堕落し腐敗した生活に芽生えた安楽を手放すはずが無い。垢に塗れた身体を見るたび、母に対する反抗が自覚され、舞い戻った自我を私は喜んで受け入れた。男はそんな私に慄然としたのか怯えた目で隣室に立ち帰り、それ以来、声をかけることは無くなった。
拘束が外れ、自己を回復したにも関わらず、連綿と監禁され続ける女。
男は想像との乖離と現実の認識に疲労し崩壊したのか、ある日、珍しく日中に外出した。その行動を訝しんでいると、ドアの開く音がし、何人かの足音が耳を聾した。強引にふすまが開かれ、和室になだれ込む男女。私に対する救助であることは明らかだった。半ば暴力的に孤独を奪われた私は抵抗しようとしたが、女性警官により体は呆気なく毛布の中に吸い込まれ、寛容は、暗い部屋に霧散していった。
男の自首により、私の不自然な解放は幕を閉じた。病院に運ばれ、ベッドの上で対面した両親。母の冷静な姿を見て、私は堅固に造られたアスファルトの道を再び歩みだす自らを想像し、暗澹たる思いに自由が崩壊するのを感じていた。
13/09/17 第三十九回 時空モノガタリ文学賞【 待つ人 】投稿
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