幸せな朝の景色を育てて
夕凪 霧葉
プロローグ
斉藤ゆかりは、どこかのタイミングで糸が切れてしまった。
それはきっと日常を過不足なく過ごすために、ゆるんだり、張り裂けそうになりつつも一定の線を越えないようにしている社会人なら誰しもがもっているものだ。
別に何があったというわけでもない。辞めてしまった職場で、給与が低いわけでも、ハラスメントに悩んだりしていたわけでもない。
ただ、単純に大学を卒業してから三年。新卒で入社した会社とは業界からして異なる製薬会社。そこで勤めていた日々にどうしてだか、満足してしまったのだ。
強いて言うのならば、緊張の糸がほどけてしまったとでもいうのだろうか。
昔から、自分がおもしろいと思ったことをとことん追求する性質だった。
とはいえ、先日二十五歳の誕生日を迎え、アラサーの仲間入りをした身の上なので、転職して一年ほどで退職というのはキャリア的に非常によろしくないというのは理解している。
きっかけは思えば、あの日の昼の偶然だったのかもしれない。
その日、ゆかりはオフィスの近くにある行きつけのパン屋で、レーズンやクランベリーが練り込まれたバケットサンドを買おうと訪れた。
オフィス街にあり、味もかなりいいその店では毎回昼時は五、六名単位で並ぶのが通常で、だからゆかりもいつものパンをささっとトレイに載せて会計に並んだ。
焼き立てのパンの香りと、様々なビジネスパーソンたちの会話で満たされる店内。ゆかりはこうして並んでいる時間も好きだった。 そして、その日、たまたま前に並んでいる人が有名魔法学校の映画に出てくる校長先生に妙に似ていたのだ。
どちらかといえば、先に連想したのは白く豊かなあごひげをお持ちになっていたこともあってか、サンタクロースの方で、後から校長先生の方は連想したのだけれど、ゆかりにとってその何秒間かの体験は、久しぶりに少女時代の記憶を連想する愉快な出来事だった。
だからなんだという話だろうけれど、何故かその記憶は年々足腰が悪くなって、ついこの間はぎっくり腰になってしまったというゆかりの母の姿をフラッシュバックさせた。
思いついたら行動が早いというのはゆかりの誇れる特技の一つで、その週には引継の準備と上司への根回しを開始した。
当時のゆかりのMRとしての仕事はすこぶる順調で、六月のボーナスもかなりのものが期待できるという話を上司からはされて、慰留されたものの、それ以外は特に問題もなく、自己都合退職をしたのはパン屋に寄った日から約一月後の事だった。
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