さようなら、つみきあそび

たけ

さようなら、つみきあそび


「ええ! うそ」

 というのが、真理の口癖だ。この場合は「本当に? 嬉しい」という意味と捉えることが出来る。この上ない笑顔を浮かべているのが、その証拠だ。

 彼女は、ごく当たり前といった具合に感情を顔に出す。

 嬉しければ、今のように満面の笑顔を浮かべて見せるし、哀しければ人目をはばからずに大泣きをする。

 怒れば僕に手を上げることだってある。

 裏表のない性格。それだけに、僕は彼女をとても信頼している。

「欲しかったんだろ?」

 僕の言葉に、よほど嬉しかったのだろう、真理は勢いよく何度も首を縦に振った。

 今という瞬間をとても楽しんでいるように見える。僕も顔をほころばせる。

「……つけて、いい?」

 真理が上目遣いで僕を見た。僕はゆっくり頷く。

「つけてくるね」

 そう言って真理が立ち上がった。

 僕はとっさにその手を掴む。真理がびっくりした顔で振り返った。

「手伝うよ」

 僕は真剣なまなざしを彼女に向けた。彼女は僕の気持ちを察してくれるだろうか。いや、きっと察してくれるだろう。確信する。

 僕は真理の口から「ありがとう」という言葉が紡がれるのを待った。

 しかし、真理は僕の期待を裏切って、ぶんぶんと首を振った。

「ううん。いい」彼女は目を瞑ってそう答えた。

 首を横に振るたびに、彼女の柔らかい髪の毛が、宙に散る。ふわり、と甘い香りが漂った。僕はその香りに、一瞬、言葉を失う。

「どうしたの?」

 真理が不思議そうな顔をした。

「髪がいい香りだな、と思って」

「ええ、うそ」

 真理は恥ずかしそうに微笑んだ。

「やっぱり、髪留めをつけるの、手伝おうか?」

 イタズラっぽい顔をしてみせる。真理は目をぱちぱちと瞬かせた。僕は微笑む。

 真理は小首を傾げ、ちょっと考えるしぐさをした。乗り気じゃないように見える。

「ごめん。嫌だった?」

 肩をすくめて見せると、真理は目を細めて首を振る。

「今日はじぶんでつけたいの」

 真理は意味ありげな視線を投げかけて笑った。僕は苦笑いを浮かべる。かなわない。そんな気持ちにさせられる。

 真理は、僕を取り巻く同年代の異性の中でも、群を抜いて賢い。そのうえ、媚を売るようなところもなく、高慢なところもない。

 僕は今まで、恋愛に演技はつきものだと思っていたのだが、彼女と出会って、その認識を改めた。僕らは、演技を決してしない。する必要がないからだ。

 すべてが自然なまま、はしゃいでいればいい。そうしているだけで、僕らの恋愛は進んでいく。だから、僕らは「好きだよ」とか「離れたくない」とは言っても、決して「愛している」という言葉を口にすることはしない。今の状態でその言葉を口にすれば、それは、僕にとっても彼女にとっても演技になるからだ。言葉で得られる事だけが幸せじゃないし、真実でもない。少しずつお互いに確認できればそれでいい。女と男が出会って恋愛をするのに、これが正しいとか、これは間違っているとか、そういったことを考えるのはナンセンスなことだとは思う。

 でも、僕には、今の自分たちのとっている行動こそが、最も正しいやりかたなんじゃないか。そんな風に思えてならない。

「じゃあ、待ってて」

 真理はそういうと席を立った。洗面所で、さっき渡したプレゼントをつけてくるのだろう。僕は、彼女の後姿を見えなくなるまで見送った。

 ここのところ、真理のことばかり考えている自分に気づく。彼女に会えない日は、ぼうっと窓の外を眺めながら、彼女と一緒にいるときのことを思い出したりする。

 思い出しているうちにどうしようもなくなって、電話をかけようと思ったりするのだけれど、自分が彼女の電話番号すら知らないことに気づいて、ひどく落ち込んだり、僕がこんなにも想っているのに、真理の方は今ごろ僕のことをすっかり忘れて、どこかで遊んでいるんじゃないか、とかそんなことを考えて、いらいらしたりする。

 自分でも不思議なくらい煩わされる。けれど、この気持ちの安定しない状態が、何故かとても心地よいと感じられるもまた事実だ。きっとこれが『恋』というものなのだろう。この心地よい時間よ、少しでも長く続け。そう願ってやまない。

 今にして思えば、僕が以前に恋だと思っていたものは、恋ではなかった。お互いのことを考えない、一方的な思い込みだった。

 年上の女性を好きになった。面倒見の良い女性だった。たった一年前の話だが、あの頃の僕は、ずいぶんと幼かった。

 彼女は優しい人だった。僕はその優しさに、節度なくもたれかかった。そんな僕を彼女は、重みと感じたんじゃないだろうか。

 徐々に彼女は、僕と距離をとるようになった。そう。僕は結局、彼女にとって『恋人』ではなく、手の掛かる『おとこのこ』だったのだ。

 表面的には、これまでとほとんど変わらない付き合いが続いた。だが、僕と彼女の間には、越えられない壁が立ち塞がっていた。薄い薄い氷の壁が。

 非力な僕には、その薄い氷の壁を溶かすことは出来なかった。

 数ヵ月後、彼女は何も言わずに結婚した。僕のまったく知らない男とだった。

 でも、僕は哀しくもなければ、憤りも感じなかった。その頃には、僕も自覚していたからだ。彼女とのことは、恋愛じゃなかったんだと。

「どうかな?」

 真理が帰ってきた。僕の前で、くるりと一回転をする。

「うん、似合ってるよ」

「ええ? うそ」

 彼女は嬉しそうに微笑んだ。お菓子とおもちゃと楽しいことで頭がいっぱいの無垢な少女。……本当は、彼女は僕のことをこれっぽっちも恋人だとは思っていないのかもしれない。それでもかまわない。彼女が僕のことを好きでいてくれるなら、それでいい。もし仮にそんな感情すら持ち合わせていなかったとしても、彼女の心を無理に捻じ曲げようとは思わない。今のままの彼女を、僕は好いている。その歪みのない心を。

 その眩しい微笑みに、僕は思わず目を細めた。

 と、不意に頭上から女性の声が落ちてきた。

「ああ、二人とも、ここにいたのね」

 僕はその声に、思わず身体を硬くする。それは、忘れようとしても、忘れられない声だった。

 ──昔愛した女性の声。

「悟くん、真理ちゃん、姿が見えないから心配してたのよ」

 お遊戯室の窓から、二十代くらいの女性が顔を覗かせている。

 ──ああ、先生。

 僕は、声にならない声を上げる。だが、そんな僕のことなんてお構い無しに、先生は言葉を続ける。

「ふたりで、おままごとしてたの? あら? 真理ちゃん、その髪留め、どうしたの? 悟くんにもらったの?」

 真理が頷く。

「よかったわねー。素敵よ。似合ってるぞー。バッチグー」

 先生は親指と人差し指で輪を作ると、真理に示して見せた。真理は「ええ! うそ!」と声を上げる。僕が褒めたときよりも数段嬉しそうに笑う。僕は、軽く唇を噛み締める。

「お外で遊ぶ時間は終わりよ。ふたりとも、戻ってきて」

 真理は「うんっ!」と元気よく答えた。僕は、言葉が出ない。

「悟くんも、ね?」

 先生が優しい口調でいう。昔と何一つ変わらない。その声音は、心を動かす暖かな旋律。変わっていない。何も変わっていない。変わったのは、薬指に光るリングだけだ。

「悟くん」

 僕はしぶしぶ頷いた。

「うん、じゃあ、一緒に行きましょう。足を洗ってきて」

 そういうと、先生は、中庭とお遊戯室をつなぐ引き戸のところまで歩いていった。僕らが足を洗って上がってくるのを、そこで待つのだろう。

 先生が去ったところで、僕は、大きく息を吐いた。真理が、行こうよ、と急かす。僕は首を振る。

「どうして?」

 真理が尋ねた。

「真理ちゃんは、みんなのところに行きたいの? 僕といるよりも?」

「うんっ」

 真理は即座に頷いた。何のためらいもなかった。惨めな気持ちになった。

「……僕は真理ちゃんとふたりだけでいたい。だから行かないで欲しい」

 自分でも、思いも寄らないことを口にした。びっくりするくらいに、か細い声だった。こんなこと、考えても口に出すとは思わなかった。

 ああ、でも、今これを言うべきではなかった。言葉が出てから後悔した。

 真理が顔を近づけてくる。キスでもしてくれるのかと、淡い期待を抱いたが、真理は僕の目の前で、激しく首を振るだけだった。

「あのね、真理ね、悟くんとれんあいごっこするのつまんない。他のお友達とつみきで遊ぶ方がすき」

 僕は、泣いた。


 母が迎えに来たので、僕は園を後にした。まだ泣いている僕に、母が「どうして泣いているの」と訊いた。

「……つみきあそびに、まけちゃった」

 答えると母は「そっかあ。じゃあ明日はもっと高く積み上げたらいいんじゃない?」と笑った。


 ──ああ、大人の恋愛ってまだまだ先のことなのかなあ──

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