第3話 思惑


 だから、つまるところ。


 “帝劇でも見にゆきませんか”という関口の誘いは、多分に下心を含んでいた。

 色めいた意味合いは、少なくとも男の意識の上にはない。

 じっと反応を窺う。


「え、あ、その……ええと……」


 わたわたと、娘はなにやらひどく取り乱した様子だった。

 顔色は赤くなったり青くなったりと忙しい。

 箸を置いた手元は行き場を見失って右往左往していた。


 中々大仰な反応だが、そもそも柄にもないことを言った自覚はある。

 それを考えればとりたてて不自然な手応えとも思えなかった。

 そうこうするうちに落ち着いたらしい娘が、おずおずと口を開く。


「それは……、急に、約束が駄目になったりしませんか」

「場合によっては、そういう事もあるかと」

「です、よね」


 奈緒はどこか思案げに瞼を伏せた。

 柔らかな屋内灯の光を受けて、睫毛が淡く影を落とす。


「何か気になることでも」

「……その。タエ子さんにも、相談したんですけど」


 口ごもりながら、それでも娘は訥々と語った。

 曰く、約束が怖い。

 果たされなかったときに起きるであろう何かが怖い。


「そうか」


 ほとんどタエ子から聞かされた通りの話であった。

 この様子であれば、約束の話は隠していたのではなく、単に言いあぐねていたのだろう。関口は奇妙な安堵を覚えた。安堵の理由は考えないことにした。


 ともかく。娘にとって、約束が大きな意味を持つのは確かであるらしい。

 であれば、やはりはっきりさせておくべきなのだろうな、と関口は判断した。

 はっきりさせるには、約束をしてみるほかない。


「当日余計な予定が入らなければ、という条件つきではどうだろうか」

「それなら大丈夫、だと思います」


 僅かの思案のあと、奈緒は頷いた。

 約束に条件付けは通るらしい。

 これで、少なくともひとつはわかった。


「では、後日」

「はい。あの、楽しみにしています」


 関口の飾り気のない言葉に、娘は今度こそ屈託なく微笑んだ。

 

 ○ ○ ○


 くるくると手伝いに動き回る娘の小さな背を見送る。

 関口の眺める限りにおいて、その振る舞いに違和感はない。


 何か変わったことがあるとすれば、ぼんやりすることの多かった表情がはっきりしてきたことと、肉がついてきたことぐらいだろう。

 袖口から覗く娘の白い腕はようやく、細いなりに柔らかい線を描きはじめている。


 ふふ、と女の笑う声に、関口は目をむけた。

 振り向けば、千津がなにやらご機嫌な笑みを浮かべている。


「さっきの話、聞こえましたよ。

 坊ちゃんたらいったいどういう風の吹き回しなんです」


 何を言われているのか、理解するのにしばらく時間を要した。

 二三度瞬きして、ようやく外出の誘いの話かと思い至る。

 何やら妙な期待を抱かれているらしいとは気づいたが、まさか真意を馬鹿正直に話す訳にもゆかず、関口はそれらしい理由をでっち上げた。


「彼女にも気晴らしは必要だろう」


 柔和な顔つきの中年女は、訳知り顔でそうでしょうとも、と大きく頷いた。

 千津は細やかなところまで気配りの利く頼もしい使用人ではあるが、時折その察しのよさが明後日の方向に発揮されて空回りするきらいがある。


 その気配を感じつつも、関口は誤解を解くことを早々に諦めた。

 この手のことは、困ったことに否定すればするほど逆の確信を与えるものと相場が決まっている。要は面白がられているのだ。

 波風たてず、興味が失せるまでやり過ごすのが一番平穏だろう。

 そんな主人の内心を知ってか知らずか、千津はひとりで話を続ける。


「ええ、ええ。気晴らしは大事です。

 次のお休みは、どうぞお二人で羽根をのばしてきてくださいまし。

 それで、奈緒さんの外出着はどうなさるんです」


 思いも寄らなかった単語に、関口は思わず聞き返した。


「まあ。まさか用意していらっしゃらない」


 女のふくふくとした輪郭のなかで、ちいさな目がめいっぱい見開かれた。


「そのあたりに散策に出るならともかく、観劇なら普段通りという訳にもいかないでしょうに。勿論、坊ちゃんの恰好もですよ。ええ、ええ。先に確認しておいてようございました。

 ともかく、ないものは仕方ありません。今から仕立てるのは間に合わないでしょうから、お召し物のほうは借りるなりして私のほうで手配いたします。着付けもお任せ下さいまし。

 ですが、なにからなにまで借り物というのも体の良いものではございませんし、髪飾りの一本くらいは見立てて差し上げて下さいましな」


 まくし立てるような勢いに、男はたじろいだ。


「そういうものか」

「そういうものです」


 千津が自信たっぷりに頷いてみせる。


 関口に観劇の経験が無いわけではない。

 だからこそ二人きりの時間をつくって不自然でなく、できるだけ年頃の娘が喜びそうな用件、と頭を捻ったとき選択肢に上がったのであるが、実のところ関口の観劇経験は全て職務上の付き添いである。

 女性を伴うならどうだの、服装はこうだのという世間的な常識が足りているかと言われれば、自信は無かった。護衛対象の装束にあれこれ気を配るのは別の者の役目であったし、己に関しては軍装で事足りたからだ。


 服装。

 言われてみれば、周囲は確かに着飾った者が多かった気がする。

 その程度の認識である。


 年若い主人はもう一度、忠実な女使用人を見た。

 世事に通じ、賢明な判断のできる点を見込んで本家から借りてきた女中である。

 世間のことには己よりよっぽど詳しい。

 その女が言うからには、だから、そうすべきなのだろう。


 とはいえ、年頃の娘に装身具を見立ててやるというのは中々に荷が重い。

 金魚飴を買ってやるのとは段違いの重責である。

 関口は少しばかり、胃の辺りが重くなるのを感じた。


「それはそれとして、このところ彼女に変わったことはないか」


 関口は話題を変えることにした。賢明な使用人は抗わない。

 ふくふくとした指先を口元にあて、そうですねえ、とのんびり答えた。


「最近文字の練習をしておいでですが、物覚えの良さは目を瞠るほどですよ。

 うちの娘の時とはまるで比べものになりません。

 ええ。まるで思い出しているだけのようですとも」


 勿論、年齢だのといった違いのせいもあるのでしょうけれどね。

 ころころと笑って、女は付け足す。

 関口はそうか、と短く答えるに留めた。


 思い出しているだけ。そうなのかもしれない。

 だとすれば、あの娘は何を忘れているのか。

 これまでに幾度も感じてきた違和感が、水泡の如く浮かび上がる。


 蛇の古語。

 双子の名前。

 文字習得の異様な速さ。


 知らない筈の知識を、知っているかのようなふるまいの数々。

 娘の挙動を確認せよという陰陽頭の指示に、これまでのことをも含むならば、違和感は確かにあると言わざるを得ない。


 だが、幸いにも下された指示は違った。

 確認せよと言われたのは、あくまでも蛇神から離されたときのふるまいだ。

 であれば、今しばらく様子見でも構うまい。そのはずだ。問題はない。


 ──否。


 そんなものは欺瞞だ。

 わかっている。 


 わかっていて、関口はそれでも報告を躊躇っていた。

 理由は色々ある。特異な生育環境による、単なる記憶喪失の可能性があること。他を害する危険性が低いこと。娘の守りたる蛇神が反応していないこと。等々。

 だが結局のところ、それらはすべて後付けのような気もしている。 

 

 約束は果たされねばならない。

 娘の抱く、その不安の当否を確かめるにしたってそうだ。

 本当に確かめようというなら、一番早いのは約束を破ってみることだ。


 だというのに、己はそれをできずにいる。


「あの、お皿のほうは片付きました。

 他になにかお手伝いすることはありますか」


 仕事を終えた娘が、ひょっこりと顔を覗かせた。

 黒く大きな瞳がまっすぐに男と女中を映し出す。


「いいえ。こちらは終わっておりますよ。

 ああ、もうこんな時間。わたしもそろそろ帰りませんと」

「お見送りします」


 ぱたぱたと軽い足音を立てて、女二人が玄関のほうへと消えてゆく。

 そのあとを追おうとした関口を、声が呼び止めた。


「待て」


 声のしたほうに目をやれば、白衣の少年神が立て膝に頬杖をついている。

 ぼんやりとした屋内灯の下、その酸漿の瞳は猜疑の色を隠そうともしていない。


「何を企んでいる」

「何も」


 むしろ俺が知りたい。

 そんな本音は、すんでの所で口から飛び出さずに済んだ。

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