第2話 暗雲

 

 事の発端は、この日の朝まで遡る。


「約束が怖い?」

「そ。聞いてないの?」


 タエ子は様子で来客用のソファにだらり身を預け、物言いたげな目で男を見た。

 職務明けに草臥くたびれた顔の、その唇からフウと細く紫煙が吐き出される。

 ヤニの匂いが鼻先を掠め、関口は僅かに眉を顰めた。

 実のところ、煙草の匂いはあまり好きではない。


 降り続く雨は朝から気怠い空気を醸し出していた。

 既に動ける人員の大方は出払ったあととあって、薄暗い庁舎の詰所は物寂しい。

 あるのは帰宅すら面倒がってずるずる居残っているタエ子と、待機を命じられた関口の姿のみである。


「一緒に住んでんのに?」

「共同生活しているからといって、何もかも洗いざらい話さなければならない訳ではないだろう」

「そりゃね。でもあんたたちの同居ってそのあたりのケアも視野に入れての話だったんじゃないの」


 関口は答えなかった。

 灰皿に伸びた女の指の先で、煙草の灰が落ちる。


「フツーの生活が出来るなら、そのほうがいい。

 それに関してはまあ、あたしも同意だけどさ。

 それなら尚のこと、はっきりさせておいた方がいいんじゃないの?」


 ぼやかしてはいたが、女が言わんとしていることは明らかだった。

 関口が薄々察していながら、ずっと曖昧ににしてきた部分の話だ。

 窓の外はまだ、雨が続いている。


「そうでなくてもわざわざを引っ張ってきたり、なァんか臭い感じだしさ」


 そう呟いた女の視線は詰所の奥、かたく閉じた扉の先に向けられていた。

 物音ひとつ漏れぬその扉の向こうは執務室である。

 今この瞬間、そこでは報告が行われている筈だった。

 他ならぬみどろが淵の調査報告である。


 かの事件それ自体は、その焦点となった土地神は既に古巣を離れ、彼を縛っていた呪詛も解かれたことで、既に収束したと見做されている。

 だが、その収束した筈の案件の後処理がここまで長引くのは異例のことだった。


 タエ子の言葉通り、匂うのは間違いない。


 そこまで考えて、関口は小さく頭を振った。

 情報の足りていない今は、考えても仕方がない。

 気を取り直して、関口はだらりとソファに伸びたままの女に声を掛けた。


「それより、いい加減帰らなくていいのか」

「動く気起きない。雨だし。濡れて帰るの嫌だし」

「傘は」

「壊れた」


 流れるような返事だった。女は根が生えたように動かない。

 実のところ、帰る気も起きないという彼女の疲労も理解できないではない。

 ここのところの事情から、何かと使い勝手のよいタエ子に負荷が集中しているのは周知の事実だった。


 とはいえ、ここでだらだらしたところでそれが癒える訳もあるまい。

 関口はひとつ溜息をついた。


「俺は構わないが、ここに残っていいように使われても知らんぞ」

「やっぱり帰る。傘貸して」


 タエ子がさっと立ち上がった。鮮やかな転身だった。

 うんと答えさえすれば三秒後には帰路についていそうな勢いだったが、関口とて手持ちの傘は自分用の一本きりしかない。

 渡してしまえば濡れて帰るのは己である。


「それは返ってくるのか」

「家に着いたらオサキに届けさせるから。ね、この通り!」


 促したのは己であるし、なにより負荷をかけている負い目もある。

 手を合わせて伏し拝む同僚に、関口は折れた。


「……好きに使ってくれ」



 ○ ○ ○



 執務室の扉が空いたのは、タエ子が急ぎ足で姿を消して五分も経たぬうちのことだった。

 待たせたね、とまるで悪びれない調子の上役の声が響く。入ってくれるかい。

 誘われるまま、関口は執務室に向かった。


「失礼します」


 室内には陰陽頭の他に、目立つ人影がひとつあった。

 白髪混じりの篷髪ほうはつに赤ら顔、山伏装束に身を包んだ五十がらみの大男。

 タエ子の言う北の御大こと、虚空坊である。


「オウ若坊、久しいなァ」


 よく通る、太い声であった。

 大男は関口を認めるなりにっかりと笑みを作った。関口も笑みを返す。

 顔を合わせる機会こそ少ないが、これが気持ちのよい男であるのはよく知っている。

 しかしながら、その彼がここに居ることの意味は重い。


「御坊も、ご壮健そうで何より」


 常は奥の三山を拠点とするこの男が帝都に出てくるのは珍しい。

 帝都すら離れ、名も知れぬような寒村に調査に出向いたとなればもっとだ。

 関口は、予感が一際強まるのを感じた。


「それで、話とはみどろが淵の件ですか」

「うん。話が早くて助かる」


 問いを受けたのは席についたままの陰陽頭だった。

 枯れ草色のスーツに身を包み、相変わらずどこまで本気なのかよくわからないうすい笑みを狐めいた顔に浮かべている。


「まあ薄々察しているとは思うけれど、調査の結果少々面倒なことが判明してね。

 例のフチガミ殿を縛っていた呪詛の件さ」


 片眉がはねあがる。

 口をひらきかけた関口を、虚空坊が遮った。


「ま、ちと待ってくれや。

 聞きたいことは山とあろうが、先に俺からざっくり説明させてくれ。

 なにせこの件、どこを掘り返しても碌でもねェ情報しか出て来やがらねえ」


 ひとつ頷いて、関口は口を噤んだ。

 真顔の大男が大きく息をつく。


「お前、そもそもあの村に行ったのは先任探しだったろ」

「ええ、途中で切り上げて引き継ぎという形になりましたが」


 山伏の問いに、予感だけが膨れ上がる。それもとびきり悪い予感だ。

 悪い予感はこういうときに限って裏切られない。続いた言葉はこうだった。


「そいつは見つかった。金烏衆、大宮うね。

 蛇神を縛っていた呪詛の、恐らくだ。

 遺留品から本人確認も取れてる」


 薄暗い執務室の中、雨音ばかりが煩い。

 関口は、己の眉間の皺が一層深くなったのを自覚した。

 遺留品とやらがどこにあったものか、知りたくもなかった。


「で、肝心の呪詛については、解除済みということもあって解析は不十分だ。

 だが、おそらくこういうモノだろうという大まかな予測は立った」


 言いながら、大男は丸太のような腕を組んだ。

 雨音の中、平坦な声が淡々と説明を続ける。


「まず、何らかの手段で女に呪詛をかける。それによって女は変質しになる。

 呪物になった女は対象を縛り付け、外敵を自動的に排除する。

 この呪物の効力は素体に依存し、時間経過と共に次第に力を失う。

 だからまあ、拘束の維持には定期的に女を補充する必要がある。

 新たに投げ込まれた生贄は古い呪物に接触することで感染、新たな呪物となる。

 ……とまあ、おおよそこういう仕組みだな」


 そこまで話して、虚空坊は一度言葉を切った。

 胸糞悪い話だ、と関口は思う。泥でもんだかのような気分だ。


 職務上、この手の話を耳にするのは珍しいことではない。

 そういう場面に居合わせることもままあることだ。

 それでもまだ、関口はこの気分に慣れられずにいる。


「嫌ァな感じだとは思わねェか」

「ええ」


 関口は頷いた。

 胸はむかついている。


「そういうこった。素人の仕業じゃねえ。

 当てずっぽうに組み立てた呪術が成立しちまう事例はままあるが、

 そういう場合はどっかに歪みが出るもんだ。こいつにはそれがない」


 。巨躯の山伏は断言した。


「ま、金烏を最初の人柱にしている時点でまともじゃねえのは察しがつくがな。

 うねは正面からバチバチやる質の女じゃァなかったが、それでも術者としてはそれなりの実力者だった。

 あれがここまで痕跡を残せなかったってのはおかしい」


 渇きを覚えたか、虚空坊は水差しを傾けて茶碗に水を注ぎ、ぐいと呷った。

 嚥下のたびに男のふとい首が波打つ。

 かつん、椀が机を打つ音はやけに大きく響いた。


「相手の目星は」

「さっぱりさ。誰の仕業か知らんが、やっこさん雑な仕事のくせに痕跡をのこさねえ。

 村人どもの記憶は、ある時期の話に差し掛かるとあからさまに矛盾を来す。

 そのくせ当人にゃ自覚はないときた。物証突きつけてみてものれんに腕押しさ。

 聞き取りで情報を引き出すのは至難の業だろう」


 そういうことか。関口はふと腑に落ちるものがあった。

 己もまた、聞き込みの際に違和感を覚えたではないか。


「しかし、御坊であれば術式がどの系譜にあるかくらいは見当がつくのでは」

「わからん」


 いっそ投げやりにも聞こえる大男の言葉に、関口はわずかに瞠目した。

 視線をふれば、狐顔の男もまた、少し困ったような笑みを浮かべて首を横に振る。

 それは恐るべきことだった。


 虚空坊はその姿形からも見て取れる通りの山伏である。

 三山にて修験道を修めるにとどまらず、名のある霊山の尽くを走破してきたこの男は、験力のみならずその広範な知識も頼みとされていた。

 地方の小集団内部にのみ伝わるような土着の呪詛や法術の類に限って言えば、その知見は当の陰陽頭すら凌ぐ。


 当代最高峰の陰陽師と、修験者。

 その両者がともに見当もつかない呪法など、明らかに異質である。

 当惑のまま、関口はみどろが淵での出来事を思い返した。


「しかし……自分が相対した限りでは、神道らしき特徴は見えましたが」

「ああ。幣だの注連縄だのそれっぽく見せちゃあいたが、ありゃだ。

 土台は俺の既知の体系にない。おそらくは外来の術の変奏だろうよ」


 言って、赤ら顔の山伏は肩を竦めた。

 関口の中で、悪い予感ばかりがいや増してゆく。


 異国の呪術体系。本邦の術式を装う感染する呪い。

 それとよく似た呪詛がいま、帝都周辺で猛威を振るってはいないか。


 つまり──


「あー、」


 太い声に、思考が途切れる。

 山伏が少しきまりの悪い顔で、ばりばりと頭を掻いていた。


「なんとなく、お前さんが何を考えたかわかる気はするがな。

 今面倒なことになってる例の件との関係はまだ調査中だ。なんとも言えん。

 類似点も多いが異同も多い。歯切れの悪い物言いですまんが」

「……いえ。確かに、少し考えが先走りました。申し訳ない」


 関口は静かに己を恥じた。

 虚空坊の言は正しい。何もかも関連づければいいというものではない。

 冷静になるべきだった。頭ではわかっている。


 ぱちん、とひとつ手を打つ音が響いた。

 さて、と狐顔に意図の読めない笑みを浮かべ、男が声を発する。


「ま、そういう訳さ。前置きは終わり。

 ということで、君には虚空坊の手伝いをして欲しいんだけれど」


 どうかな、と陰陽頭は両手を合わせたまま小首を傾げてみせた。

 へんにかわいげのある仕草に、どう反応したものか対処に困る。

 関口は深く考えないことにした。


「手伝いとは、どのような」

「まず、みどろが淵の当事者たる蛇神殿と生贄の娘、それぞれ個別に話を聞きたい。

 蛇神殿は娘につきっきりと聞いている。一度どうにか引き離してもらえないかな」

「……、承知しました」


 頷きながらも、関口はふと、上長の要請に違和感を覚えた。


 個別に話をきくだけならば、引き離す必要まではないのではないか。

 共に呼び出して、一方に話を聞くあいだ別室で待機してもらえば事足りる筈だ。

 だがその僅かな違和感は、次の言葉の前にあっという間に吹き飛んだ。


「その上で、

 君の目で確かめてほしい」


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