第4話 家族

 

 名取り地蔵。


 関口が反応したのは、その単語だった。

 脳裏に浮かぶのはこの宿場町の外れ、あの地蔵尊のことである。


 だが、と関口は苦悩した。

 気の高ぶった子供の集団を相手に、それは何だと尋ねに行くのはひどく躊躇ためらわれる。

 常から言って、より怯えさせるだけに終わるのは目に見えて明らかだった。


 せめてこれが大人であったなら、と関口は思う。

 目の前にある手がかりに、手を伸ばせないのがもどかしい。


「……?」


 ふと、視線を感じて目線を下ろすと、娘の物言いたげな瞳と目が合った。

 そのまなざしには、控えめではあったが、思索の色がある。

 何事かと男が問おうとしたまさにその時、視線は交錯から外れた。


 前を見た娘は何やら腹を決めた顔でやおら立ち上がり、まっすぐに子供たちの方に歩み寄る。

 その手の内には、手つかずの金魚が揺れていた。


 ○ ○ ○


「君たち、どうしたの?」


 大げんかの始まる寸前のことだった。

 ぎゃんぎゃんと輪になって騒いでいた子供たちは、見おぼえのない突然の闖入者にぴたりと声を止めた。


 声をかけたのは名無しである。

 騒いでいたのは、おおむね十を少し過ぎたかどうかぐらいの子供の集まりだった。

 誰かの兄弟か、中にひとりだけ、一回りは小さい幼子が交じっている。

 町の子たちは互いに目配せしながらそわそわしていたが、そのうち大将格らしい女の子がひとり、代表して口をひらいた。


「この子が……一緒に草すべりしたいって。

 小さいから危ないって言っても聞かないの」


 土手の上で大人しく待ってなって言ってるのに。

 言いながらぶうたれるその子の、少し背伸びした雰囲気はかえって子供らしい。

 そっか、と言って名無しはしゃがみ込み、今度は指差された幼児に向き合った。

 周りの子供たちは息をとめて、じっと成り行きを見守っている。


「じゃあ、きみ。この子の言うとおり土手の上で待っていられるなら、わたしのこの飴あげる。どうかな、大人しく待てる?」


 名無しは、つやつやの金魚飴を幼子の前に差し出した。

 くるくると棒を回せば、日のひかりをはじいて、柔らかな造形のヒレがきらきらと輝く。

 目に涙をいっぱいに溜めたその子供は、名無しの差し出したきらきらを目にすると、躊躇いながらも頷いた。


「あの、ありがとうございました」


 ぺこり、と場を仕切っていた女の子が頭を下げた。

 周囲にたむろしていた他の子供たちはめいめいに草すべりに戻っている。

 飴を手にした幼子はといえば、その兄弟らしい子供に手を引かれ、土手の辺りでも特に見晴らしがよい場所に座ってご機嫌で飴をしゃぶっていた。


「どういたしまして。

 ところで、さっき言ってた名取り地蔵って何なのか、聞いてもいい?」

「えっと……」


 女の子は思案げに、そっと辺りを伺った。

 しっかり幼児が声の聞こえない位置にいることを確認すると、声を落とす。


「町の外れに一体、お地蔵さまがたっているんですけど。

 このお地蔵さまに悪い子の名前を書いた紙をお供えしてお願いすると、その子を連れて行ってくれるんだって」

「そうなんだ」


 大げさに名無しが驚いてみせると、女の子は少し悪い顔をして笑った。


「嘘だけどね。もの。

 ほんとは大人が言うこと聞かない子を脅かすのに言ってるだけ。でも、あの子にはまだ内緒ね」


 じゃあ。

 女の子はさっと身を翻すと、草すべりに興じる子供たちの集団に混じっていった。


 ○ ○ ○


「ごめんなさい。飴、あげてしまいました」


 せっかく買って貰ったんですけれど。

 眉をハの字にして、戻ってきた名無しは心底申し訳なさそうに言った。


「いえ。

 あれは君にあげたものです。どうするかは君が好きにしていい」

「あの、……わたし、余計なことをしてしまいましたか?」


 己の物言いが奥歯に物が挟まったようになっているのを、男は自覚していた。

 声が固い。おそらく、表情も固いだろう。

 それを証明するかのように、関口を見上げる名無しの表情はみるみるうちに強ばっていっていた。瞳が不安定に揺れている。金魚の消えた指先が、よるべを求めて袖口を触っていた。


「いえ、なにも」


 言って、関口は目を閉じた。

 感じていることを言語化するのは得意ではない。

 それでも、正しく伝えるための言葉を探す必要があった。


 目を開く。名無しの、妙に力の入った細い肩と、こわばった瞳とを見る。

 確か、親を見失った子犬が丁度こんな顔をしていたな、と思う。

 そして探し出した言葉を伝えるべく、関口は慎重に口を開いた。


「名取り地蔵について、聞き出していただいたのは率直に言って助かりました。

 同じことをやろうとしたところで、自分では怯えさせていたでしょうから。

 ですが、よかったんですか」


 娘は小首を傾げた。何を問われているのか判っていない様子である。

 それでも辛抱強く返事を待てば、ある瞬間、唐突に肩の強ばりが解けた。


「その……はい。

 たぶん、わたしが持っていても、勿体なくてずっと食べられなかったと思うので。あの子たちがそれで喜んでくれたなら、良かったかなって」

「そうですか。であれば、自分から言うべきことは感謝以外にありません。

 ありがとうございます」


 いえ、と名無しは照れくさそうにちいさく笑った。

 吹き抜ける初夏の風が、娘の黒髪と瑞々しい土手の青草を揺らしてゆく。


 遠くでは、きゃあきゃあと遊ぶ子供たちの明るい歓声が響いていた。

 彼らは先程のいざこざなどもうすっかり忘れている。


 やはり女子供は苦手だ、と関口は思う。

 嫌いではないからこそ、怯えられるとどうしていいかわからない。

 こうして、笑っていてくれるほうがずっと好ましい。


 ○ ○ ○


 少し調べ物をしてくる、と関口は言った。

 その前に宿まで送ろう、という提案を断ったのは名無しである。


 名無しはただの小娘である。そのただの小娘のために、果たすべき務めのある人間の手をかけさせるのはどうにも気が引ける、というのが名無しの言い分だった。


 関口は渋い顔をしたが、宿までさして距離があるわけでなし、いざとなれば自分もついていると蛇神が口を添えれば、男も不承不承頷いた。


「あら、お一人でお戻りです?」


 帰り着いた名無しが宿の玄関口で出くわしたのは、竹箒を手にしたゆきである。

 くるくるとよく働く娘らしく、今はどうやら掃き掃除を終えたところのようだった。

 日に焼けた仲居の娘はまじまじと名無しの顔を見つめたかと思うと、にっこり笑った。


「何かあったのかと思いましたけど、その顔を見るに、ちゃんと話せたみたいですね」

「はい。おかげさまでちゃんと話せました」


 ありがとうございます。

 ぺこりと名無しが頭を下げれば、娘はからからと笑って、いーえ、どういたしまして、と答えた。

 ゆき、と仲居の娘を呼ぶ声がしたのは、丁度その時である。


 名を呼ばいながら、ひょいと顔を覗かせたのは宿の女将であった。

 年格好こそ違うが、日の下で見る二人の顔のつくりはよく似ている。

 ただ、ゆきの涼やかな目元だけが、両者の印象を異にしていた。


「ゆき、手が空いているなら、ひとっ走り中村屋さんのとこまでいってきて頂戴な。そろそろ頼んでいたのが届いている頃だから」

「はァい、今すぐ」


 それじゃあね、とゆきはひとつ目配せをして、さっと宿を出て行った。

 風のような娘だな、と名無しは思う。


「お帰りなさいまし。騒がしい娘でごめんなさいね」


 柔和な顔だちを更に柔らかくして、女将は言った。

 ゆきが風の娘なら、こちらは温かくどっしりとした大地の女といった印象だ。


 とんでもない、良くしていただいていますと言えば、女将はそうですか、と嬉しそうに微笑んだ。その女将も何かの用事の途中であったか、一言ごゆっくり、と言うと奥へと姿を消す。


 ふと、みな、何かしらのやるべきことを持っているのだな、と名無しは思った。

 名無しには何もない。あっという間に、名無しは一人になった。


『さて、娘よ。ぼんやりしているが、おまえはそろそろ体を休めておいたほうが良いのではないか? 忘れておるようだが、昨日は相当歩いたろう』

「あっ」


 緊張で考えから吹き飛んでいたが、言われてみれば、両腿のあたりや、ふくらはぎのあたりが鈍く痛だるいような気がする。

 ただ、重い体に反して、心は軽く晴れ晴れとしていた。


 ○ ○ ○


 ふと、何か声が聞こえた気がして、名無しは宿の廊下で足を止めた。


「……?」

『誰ぞ、呼んでおるな』


 蛇神がそう言うのであれば、やはり聞き間違いではないのだろう。

 耳を澄ましてみれば、それは今にも消え入りそうな、か細い女の声のように聞こえる。

 妙に興味を引かれて、名無しはその声のする方にふらふらと近づいた。


 たどり着いたのは、ちいさな坪庭に面した廊下だった。

 声がしているのは、その庭をはさんで向かいの部屋からのようだ。

 もっとしっかり出所を確かめようと足を踏み出した、その時だった。


「あッ」


 流石に、声にばかり気を取られすぎていたらしい。

 いつのまにか廊下の縁を越えていた名無しは、足を踏み外して庭に転げ落ちた。


「痛ッた……」


 擦りむいたふくらはぎのあたりに、じんわりと血が滲む。

 己の間抜けさ加減に、名無しは少し泣きたくなった。


「あの、大丈夫ですか」


 今度ははっきりと、女の声がした。

 向かいの部屋の障子が薄く開いて、娘がひとり、こちらを覗いている。

 ひどく青白い顔をしていたが、その面立ちは女将やゆきによく似ていた。


「まあ、大変」


 名無しの傷をみとめると、娘は障子を開け放ち、薬箱を抱えてぱたぱたと駆け寄ってきた。空になった部屋の中には、敷き伸べられたままの布団が見える。


「さあさあ、どうぞこちらに腰掛けてくださいな。お手当て致しますから」


 そう言う娘からは、ぷんと強く薬の匂いがした。

 夏も間近だというのに、肩には厚手の肩掛けを羽織っている。


 間の抜けたところを見られた恥ずかしさと、見知らぬ人物を前にしての人見知りとでどぎまぎしながらも、名無しは言われるままに縁側に腰掛けた。


「あの、すみません」

「いいえ、お気になさらず。

 少ししみるかも知れませんけれど、我慢して下さいね」


 そう言って、手際よく手当ての準備をした娘は、薬を染みこませた綿でちょん、と傷口を押さえた。


「っ、」


 その瞬間、名無しは飛び上がるかと思った。ひどくしみる。

 娘はそんな名無しの反応にふふ、と笑みをこぼしつつも、一切手を止めなかった。


「あら、包帯がないわ」


 ひとしきり傷を清め終わったところで、娘はそんなことを言った。

 娘は小首を傾げて少しばかり思案すると、懐から薄絹のハンカチーフを取り出して、それを名無しの傷に巻いた。

 手の込んだ絹の染め模様が、名無しの肌にひどく浮いて見える。


「はい、おしまいです」


 そう言ってにっこりと笑った娘の顔は、やはりゆきによく似ていた。


「あの、ありがとうございます。洗って返します。

 あなたは──?」

「ゆきの妹です。双子の」


 なるほど、よく似ているはずだ、と名無しは得心した。


 ○ ○ ○


 なんとはなしに、世間話をする流れになった。

 とは言っても、名無しは世事に疎い。ゆきの妹もそれは同じであるようで、話は自然と、互いの身の上話になった。


 好きな季節のこと。

 生まれ育った場所のこと。

 それから、家族のこと。


「──わたし、姉さんがうらやましい」


 だが、果たしてどういった経緯でその話になったのだったか。

 名無しの隣に腰掛けた娘は、ぽつりとそうこぼした。

 生まれつき体が弱いのだという娘は、ほとんど家から出たことがないという。


「父や母はまるで埋め合わせみたいにいろんな物を買って寄越すけど、そんなものより、わたしは健康な体に生まれたかった」


 同じ日に、同じような名前を貰ったのに、わたしばかり名前負けもいいところだわ、と言って、娘は咳き込んだ。

 その顔色は、先程よりもいっそう青白くなっているようにも見える。

 ちらと開け放たれたままの娘の部屋を見れば、なるほど、娘の布団を取り巻く文物は言葉通りどれも真新しく、ほとんど使われていないようだった。


「あの、大丈夫ですか。もう戻った方がよいのでは」

「大丈夫。久しぶりに外のひととお話出来るのだもの、もう少しだけ」

「何をしているんだい。部屋に戻りなさい」


 ふと、背後から男の声がした。

 振り向けば、四十を過ぎたぐらいの男がひとり立っている。

 宿の主であった。


「父さん」


 娘ふたりを見下ろす目元は涼やかである。

 ゆきと似たその眼差しは、若かりし頃はさぞかしもてはやされたことだろう。


「お医者様にも、あまり外の風に当たりすぎてはいけないと言われたろう。あまり我が儘を言ってはいけないよ」


 そう言って娘を窘める声は穏やかだったが、その表情にはどこか憂いが滲んでいる。

 娘は渋々頷くと、名無しに手を振って部屋に戻っていった。

 名無しも手を振り返す。


 きちんと障子が閉まるのを見届けて、宿の主人は名無しに向き直った。


「あれと、話をして下さっていたのですね」

「あの、……はい。わたしがうっかり足を擦りむいてしまったのを、お手当してくださって」

「そうでしたか」


 主人はにっこりと笑った。


「話相手になって下さってありがとうございます。

 良ければ、あれの体調が良いときにまた話をしてやって下さい。

 あれには、常々寂しい思いをさせてしまっているものですから」


 はい、と名無しは頷いた。

 男の顔には、薄く疲れが滲んでいるようにも見えた。


 それではこれで、と歩き去る宿の主人の後ろ姿を見送る。

 その姿が見えなくなったところで、するりと白蛇が姿を現した。


『大事ないか』

「はい、本当に少し擦りむいただけなので」

『ならばよいが。──しかし』


 ぽそりと、白蛇が呟いた。


『今、もう一人居ったな。姿は見せなんだが』



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