クララのために
市川冬朗
1日目 旅立ちの朝
1-1「春」
春よ、遠き春よ。
<詩人>
ここ3カ月、大地を覆っていた雪はもうほとんどない。
日陰に少し、冬の名残を残すかのように点在するだけ。
うす曇りの下、大地は冬の湿り気を残すが、大気ははっきりと、春の軽やかな予感を含んでいる。
城塞都市「デイスペック」は、大陸でも春の訪れが2番目に遅い城である。
もっとも遅いのは、更に北にある、ブリリアントパーク国唯一の城「カシュワルク」。
春の訪れと共に、今年はこの国境の都市に、いつになく、慌ただしい空気が感じられる。
狭い城塞都市のそこかしこを、甲冑姿で急ぐ人影が絶えない。
それらの人に釣られて、商魂豊かな商人達は、いつもはまだ寝ぼけている街時間にも関わらず、店先に商品を並べるために走り周っている。
最終的に釣るのは、商人達か。
どう見ても戦争の準備にも関わらず、不思議とがちゃがちゃという金属音だけで、いくさ場にありがちな、罵声や怒鳴り声といった騒々しさはない。
街全体が、どこか神聖な空気感に支配されているように、粛々と動き続けている。
「ようやくだな」
希望に溢れた春の朝の空気の中、街の様子を頬杖をついて眺めていたクララに、アルミスが話しかけた。
王宮に泊まればいいのに、この騎士―らしい―は昨夜の顔合わせの後、連れの女性と共にクララと同じ宿に投宿した。
「そうですね」と言ったが、つい一週間前に来たクララにしてみれば、さして「ようやく」といった気もしない。
もっとも、どこかの公国の騎士やら、どこかの帝国の魔道士やら、どこかの村の司書さん―なぜ司書が今回の招集に応じたのか、どう考えても分からない―やらは、3か月前から出発に備えて待機していたらしいから、「ようやく」なのかもしれないが。
アルミスは、たぶん日課なのであろう―1週間、毎朝しているから―旅亭「コンコルド」の前で、なにかの型を行っている。
身長は、百八十センチほどある。
クララが百五十五センチだからちょうど、頭ひとつ違う。
金髪に青い瞳。
バルク人らしい健康的な肌色。
さすがに鍛えられて引き締まった身体。
一見して武人なのだが、それでも知性を感じさせる顔立ちは、すっと通った鼻筋と表情の読みにくい、その目のせいか。
ぼんやりと考えながら、再び街を見る。活気とはまた違う、とにかく動きの多い街を見やったり、中程まで差し掛かった―毎日見ている内に、なんとはなしに覚えてしまった―アルミスの型を見やったりしていると、高音の可愛らしい声がクララを呼んだ。
「おはよう!クララちゃん」
首だけで向き直ると、筆頭騎士殿の連れの女性―それ以外、実はよく知らない―アイリが、少し欠伸を殺し、髪をかき上げながら旅亭の入口から出て来た。
クララの髪は、少し青みがかった緑色だがアイリの髪は漆黒と言うのだろう。
健康的な肌色に、漆黒の髪が、その端正な顔立ちと相まって、独特のオーラを醸し出している。
身長は、クララより少し高い。
ただ、フル装備状態では、やけに高いヒールのブーツが、クララより十㎝も高く見せている。
今がまさにそう。
すれ違った人間が百人いたら、百人が振り返る。
男でも女でも。
そんな雰囲気がある。
しかし、アイリは、その眼―人によっては険があるとも言うだろう―でアルミスしか見ていない。
それは、この1週間で、男女に疎いクララでも良く分かった。
顔合わせの壮行会会場でも、王宮を散歩している時でも、身長が高いのでとかく目につくアルミスを見かけると、必ずアルミスを見ているアイリを見かけることになる。
「眠そうね」
アイリが横に腰かけながら話しかけた。
クララは、別段眠くはなかったので、小首を傾げながら、眠そうに見えるのかな、と思った。
よく分からない。
確かに、昨日は眠りが浅かった気もする。
スライブの村を出てくる前の夜と同じ。なんとはなしに、ボーッとする、というか現実感がない、ふわふわとした感じはする。
だから、そう伝える。
ふんふんふん、とアイリは声に出して、小さく首を縦に振る。
可愛らしいな―自分より十は上の女性をつかまえて―クララはそう思った。
アイリの邪気は、一度心を許した相手には、そうそう発揮されない。
これも、ここ1週間で学んだ。
なにが根拠か分からないが、この女性に気に入られたらしい、と感じている。
それが、ちょっと嬉しくもある。
「そろそろ行くかい?」
いつの間にか型を終えたアルミスが、二人に声をかける。
「はい」
「はあい」
クララ、アイリ、それぞれのペースで返事を返す。
返事は短く、とアルミスがアイリをキッと睨んで言う。
アイリはにやにやしながら「はいっ」と短く言い直し、旅亭に入るアルミスの後に続いた。
そんな二人の後をクララはぼんやりと追う。
クララはなんとはなしに小首をかしげる。
現実感が、どこか希薄な気がする。
1-2「平地」
平地がつまらないなんて!
なんて贅沢なことを!
<旅の女芸人>
なぜ七人なのか。
昨晩の壮行式の最中、司書さんが教えてくれた―正しく言葉を使うならば、話してくれた―のだが、眠かったせいもあって、良くは覚えていない。
確か、100年前の「侵食」も、200年前の「侵食」も300年前の、それこそ記録として残っているうんと昔から常に七人のパーティーが侵食を止めて来た。
そういう話だったと思う。
司書さんは30分かけて話してくれたから、実際にはもっと深い話だったような気もするが。
ともかく、現実、クララは今七人の仲間と国境の門に向ってゆっくりと馬に揺られて向かっている。
クララの場合、何の宛てもなく国―というか村か―から出て来たので、ほんとに偶然出来上がったパーティーにいるわけである。
クララにとって、アルミス―おじさんと呼ぶと怒る―とアイリは、多少の知己ではある。
当人達がどう思っているかは分からないが。
二人とは、デイスペックの城―城塞都市の入り口ではなく、本城―の前で出会った。
ちょうど1週間前、クララが本城の跳ね橋の辺りで、どう門番に話しかけようかとウロウロしていた時。
途方に暮れていた、とも言う。
人の出入り、馬の出入りはあるものの、多くの者は、何人かで連れ立って歩いき、仲間と何やら真剣に話していたために声を掛けづらく、馬に乗っている何人かは、クララに一瞥もくれずに走り去って行った。
一体誰に話しかけたらいいかも分からない。
いろいろな甲冑姿があって、誰がデイスペックの兵隊かも分からない。
マニアじゃないから、デイスペックを納めるファランス候の兵が、どんな意匠の甲冑であるのか、どんな紋を付けているのかも分からない。
その時は分からなかった。
今にして思えば、それこそ千もあろうかという幟に示してあった、円の中に七つの剣をあしらった紋章がそれだと分かるが。
何度か一人で歩いている人を見かけて声をかけようとはしたが、みな、急いでいる人間がよくするジェスチャー―都市部でおなじみの、首を振りながら、手を振る例のやつ―をしながら通り過ぎて行くだけ。
そのくせ、クララを過ぎて知り合いに会うと、立ち止まって談笑を始めるのだ。
都市の人間は冷たい、今さら母の言葉が思い出される。無理も無いかも知れない。クララは家に代々伝わる甲冑と腰履きの剣で軍装しているが、お世辞にも小奇麗とは言えない。母がなるべくいい物を、と用意してくれたミトンもズボンも、ところどころ継ぎを充てているし、スレイブの村からの旅路で、鎧も相当汚れてしまった。パッと見、少年兵が、戦争ごっこしている様にしか見えない。
実際、大きく外れてはいないのだが。
クララは、情けないやら、腹が立つやら、空腹やら、疲れやらで、目眩がして来た。
そうして、ウロウロしながら2、3時間も経った。
もう限界だ、もう村に帰ろう、と半分泣きながら本城の吊り橋前から都市部に向けて歩き出した。
ほんとに泣きそうだったので―先ほどまでの気持ちに、若干、心細さやら、ホームシックやらがスパイスとして加わっていた―気持ちを落ち着かせるために立ち止まって目を押さえた。
ようやく落ち着いて、さあ歩き出そうと顔を上げて目を見開いた時―それこそ目と鼻の先に―馬の鼻が見えた。
驚いて横に跳ぶ。
間一髪、であったと思う。
馬蹄が目の前をかすめた。
地べたに両手をついて尻もちしたまま、呆然として、過ぎていく二組の人馬を見送る。
どうどう、と声がして、馬が踵を返して戻って来た。
馬上から、「大丈夫か?」「ごめんなさい大丈夫?」と声がする。
続いて馬から降り、二人の人間が走り寄って来た。
お腹は空いてるし。
情けない恰好だし。
ズボンは雪解け水を吸ってドロドロだし。
寒くて寒くて居られないし。
お尻は痛いし。
もう全部嫌だし。
村を出てから優しくされたの初めてだし。
それで、泣いた。
割と大声で。
それが、バルクの騎士アルミスとアイリとの出会いだった。
馬上に揺られて国境への道すがら。
思わず日差しも気持ち良く、ボーっと回想してしまった。
日差しも春だし、風も春だ。
つい一週間前まで大雪が降っていたのが信じられない。
スレイブの村では、そろそろ冬の屋根が仕舞われて、春夏用の屋根に換える作業が始まる頃だろう。今年は手伝わなくていいからラッキーだ。
そんなことを考えていると、またぞろ回想やら妄想に陥ってしまう。
しっかりしなきゃ、と言い聞かせて、興味を隊列に戻す。
隊列は、先頭にアルミスとアイリが馬を並べ、その後ろに、自称大魔導士―ただの怖いお爺ちゃんに見える―その横が、フードを被った綺麗なお姉さん―おそらく司祭様―、その後ろがクララで、五馬身ほど離れてクララと同じ位の歳の少年、プラスワンで構成されている。
プラスワンの部分―司書―は、更にそこから2馬身ほど遅れて、のんびりと馬を進めている。
少年は、自分と司書が隊列から序序に遅れていくのが不安なようで、さかんに後ろをチラチラ見ながら、手綱を動かしている。
そんな少年の落ち着かなさを知ってか知らずか、司書は時折馬を止めては、そこらの木を触ったり、空を見上げたりしていた。
「クララ!」
急に名前を呼ばれて、反射的に手綱を引く。ブルルっ、と嘶いて馬が止まる。
いつの間にか隊列は止まっていた。
クララを呼んだアルミスは馬ごと、他の人たちは、体だけで後ろを見て、少年と司書を待っている。
ようやく二人が―少年は気恥ずかしそうに、司書は涼しい顔で―追いつくと、アルミスが言った。
「馬はここまでだな。」
顎で前方を示す。
見れば国境の門、通称「贖罪の門」が1000mほど前方に、その姿を表していた。
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