飽きるほど語られた生と死をもう一度
時雨逅太郎
飽きるほど語られた生と死をもう一度
人間は生きているし死んでいる。時間は金で、そして命だ。命とイコールで結ばれうる時間を取られるというのは細分的な命を殺されているということに他ならない。
私達は死に続けている。命は砂のように砕かれ、はらはらと落ち続ける。我々は必ずなにかに時間を取られている。なにかに殺され続けているのだ。
では死なないこととは時が進まないことである。命が尽きた時、それはもはや死ではなくなる。単なる無と化す。しかし、死を避けたとき、私達は無となるだけでけして生きているとは言えないのだ。
視点を変えよう。私達が生きていると実感するのはいつだってなにかに時間を割いている時だ。物を食べるとき?寝るとき?私の貧相な人生では想像はつかない。ただ、そこには必ず死に等しい時間の経過がそこにあるのだ。
私達の生死というのはまさにここにすべて集約される。つまり私達が生と解釈すれば生、死と解釈すれば死なのだ。楽しいことと嫌なこと。あなたがどちらをどう解釈するかは勝手だが。
私達の死は生にもなりうる。生死は同質なものであり、そして主観的なものである。
つまり私達は死ぬことによって生を得ている。死にながら生き続く。止まった時間の中で生きるという行為も死ぬという行為も発生しない。そこには無があるのみだ。私達は時間が止まることを死と表現しているが実はこれは正しくないのだ。ただ無があるだけ。私達の真後ろに常に死は張り付いている。
飽きるほど語られた生と死をもう一度 時雨逅太郎 @sigurejikusi
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