偽りでも
頬にキスをされた。
その唇は、雨の味がした。
呆然とする俺の前には、小悪魔めいた笑みを浮かべた音山がいる。
余裕そうに見せているが耳まで真っ赤だ。
すると、音山は俺に向けてビシッと指を刺して言った。
「私に惚れられたこと。後悔させてやるんだから!」
そして、雨はより一層強くなる。
まるで、俺の気持ちを表しているように。
「じゃ、じゃあ、風邪ひいちゃうから帰るね!」
そう言って音山はくるっと回る。
その後、半身だけをこちらに向けて、また小悪魔めいた笑みを浮かべウインクをしながら俺に言った。
「覚悟しててね」
その顔は、やっぱり耳まで真っ赤だ。
走って帰っていく音山が見えなくなるまで見届けた俺は、誰もいない駅の前で、一人立っていた。
雨は時間が経つたび強くなっていき、服と肌が張り付いて気持ち悪い。
ただ、俺はそんなことを気にする余裕なんてない。
俺の右腕は震えていた。
それを抑えるように、左手で右腕を掴む。
それは、雨による寒さからくる震えでも、武者震いでもない。
なんの震えなのか、俺にはわからない。
いや、多分本当は分かっている。
分かっていると思いたくないだけ。
この震えがなんなのか、俺の中で分かってしまえば、思い出してしまう気がして。
あの時のことを。
恋愛というものが、俺の大切な友達を、そして大切な場所を奪い、壊していったあの時のことを。
そして俺は、キスをされた頬をそっと触る。
これがファーストキスに入るのか入らないのか、そんな考えは全部雨に流されていく。
ただ、俺がキスをされたのは初めてではなかった。
* * * * * *
雨がザーザーとふり、まるで滝に打たれているような感覚の中、俺は一人で帰っていた。
歩きながら見える景色には、この大雨の影響か誰もいない。
これがいわゆる、そして誰もいなくなったってやつか。
いや、最初から誰もいないか。
俺の目から見える景色はには、誰もいない。
そんなことを思っている時だった。
滝のように降っていた雨が一瞬にして消え、雨が何かに打ち付けられているような音がする。
上を見ると傘があった。
その傘は透明で、 持つところには破りきれなかったのか、ビニールでまだ包装されている。恐らく、さっき買ったのだろう。
俺は傘を持つ手が伸びている後ろを見ると、そこには真彩がびしょ濡れの状態で立っていた。
「いつもより、死んだ目をしてるよ、あんた」
そう、吐き捨てるように言った真彩は、照れ臭そうにどこか遠くを見ながら言う。
「なんで……」
「別に?なんか、置いていったみたいな気がして、私の良心が痛むから待ってただけ」
「お前のどこに良心があるんだよ」
「は?私は良心の塊だし、良心と言ったら私だし、良心=私と言っても過言じゃないし!」
「じゃあ、その良心を少しは俺にも向けてくれませんかね?」
「今向けてる」
そう言った真彩は、また目を逸らし遠くを見る。
そして、俺は上に傘を見上げる。
これが、真彩自身の良心が故の行動なのか、はたまた単なる気まぐれなのかは分からないが、今はこの傘だけですごく気が楽になる。
例えそれが偽りであって、本当の優しさでなくても、人の優しさ、暖かさに触れているような気がして。
気がつくとさっきまでの震えは止まっていた。
「……ありがと」
俺も、真彩を視界に入れないように目を逸らして言う。
やばい、なにこれ照れるんだけど。
いや、だっていつもこんなこと言わないし、言うような間柄じゃないし。
そう、俺は脳内で誰かに言い訳をしていた時だった。
ボーーという風に、吹き飛ばされるように傘が裏返しになった。
「ありゃ」
真彩のその、気の入ってない声と共に、傘は真彩の手元から離れ、どこか遠くへと吹き飛ばされていく。
「はっ。所詮はコンビニか」
やれやれと呆れ顔で真彩はそう言う。
「お前の良心はコンビニ価格かよ」
「あ?なんか文句でもあるのかな?」
「ないです。ないです。真彩さんの良心を感じられたことをありがたく思います」
怖い!怖いよ真彩さん!なんなのあれ、あんな怖い上目遣い初めて見たよ!?
ねえ、上目遣いってもっとドキドキするものじゃないの?いや、違う意味でドキドキはしているけど。
「そんじゃ、さっさと帰るよ。雨に濡れて気持ち悪いし」
そう言って、真彩は着ている服を伸ばす。
よくよく見ると、濡れてる服が透けて……。
いや、俺はなにも見てない!見てないよ!だからなにも見てないって言ってるでしょ!?
と、また俺は誰かに脳内で言い訳をしていると、真彩も俺の不自然な視線に気づいたらしく。
「ちょ、あんたなに見てんの、キモいんだけど」
そう言った真彩の表情には、恥じらいとかで頬が赤くなることもなく、ただ汚物を見るような目で俺を見ていた。
めっちゃ引かれてるじゃん。ってかその顔にその目は結構、精神的にくるものがあるな。
多分、普通の人ならもう一生目を合わせられないよ。
ただ、ここで真彩と自然に目を合わせることができた俺は、やっぱり普通ではないのかもしれない。
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