家路
camel
prologue
髪が濡れているので、雨が降っているのかと思った。
「おかえり」
僕が目を細めて声をかけると、彼女は目を丸くして声を返した。
「ただいま」
僕はタオルを渡した。困った様子で彼女はタオルを受け取り、すんと匂いを嗅いでいる。なんて失礼なやつだろう。
「何年ぶりだろうね?」
「たった二週間ほどでしょう」
「君はずいぶん変わったね」
「そうかしら?」
毛先を絞るように拭ったけれど、黒髪はしっとりと艶めいて見えた。
「髪留めは?」
「見つからないのよ」
桜の花の髪ゴムが彼女の後ろ髪を縛っていた。それが印象的で、下された長い髪は珍しい。よく覚えてるわねと、嬉しそうに笑った彼女は、僕のよく知る彼女だ。
「いつまでいられるんだ?」
「少しだけかな」
改めて僕は彼女のにおいと服を確認する。雨とよく知っているにおいと、ぼろきれみたいな姿だった。
「まったく、どこに行ってたんだ」
「あなたにだけは言われたくないわよ」
「そうかもしれないな」
「そうでしょう」
彼女は馴染みの椅子に腰掛けた。僕は彼女の目玉を覗き込む。いつも見ていた輝きは見えない。
「魚にでもなったみたいだ」
「あなた、好きだったものね。今は?」
「肉ばかりさ」
自慢気な僕をからかうように彼女は鼻先を突いた。本当に何年かぶりに思えた。冷たい手の感覚にぞわりとしたが、これも彼女特有のものだ。
「何しに来たんだ?」
「最後に会いたかったのよ」
「じゃあ、もっと早く帰ってくればよかったのに」
僕がつい声を荒げると、部屋の空気が重くなった。
難しいのよと小さく呟いた彼女に、僕は目を逸らす。あの大好きだった彼女の目を見るのが憚られる。暖かい日差しのような目を彼女は持っていたはずだったのに。
「雨は嫌いだ。その匂いもね」
「仕方ないでしょう」
何があったのかは自ずとわかっていた。だから、尋ねはしなかった。
僕の肩に優しく触れようとするので、自然と距離を取ってしまった。
「また窓を閉め忘れたわね」
「君は前から用心が足りない」
「玄関の鍵は閉めておいたわよね」
「知るわけがない」
「そういえば、そうね」
うっかりした彼女は、何かあって急いで外に出た。傘も持たずに走っていった。
遠い記憶のようだが、やっとぼんやりと思い出された。僕は彼女の背中を見送っていた。ただし、その理由を聞いていない。
「何をそんなに急いでいたんだ?」
彼女はゆっくりと首を傾げて、何度か左右に首を振った。それで思い出せるものだろうか。
「たしか、そう! 特売日でね。近所のスーパーだし……」
その動作に意味はあったようだ。
「外に出たら、雨が降ってたんだけど、まだ小雨で。傘を取りに帰らなかったの」
そうして、彼女は玄関の傘立てに目を向けた。一本だけの花柄の傘がきっちりと仕舞われている。そんなところだけ、几帳面なのだ。
「取りに戻ればよかったのに」
僕が溜め息をつくと、彼女は照れ臭そうに頭を掻いた。
髪をかき上げると、赤い傷跡がしっかりと見えた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます