嗅ぐ
2007-10-15
二十歳前、独り暮らしを始めた頃から、なぜだか鼻がひどく効かなくなった。それまでは、帰って来た玄関先から台所で煮ている煮物の具材が何と何と何かまで嗅ぎ当てた鼻だったのだが。
ツツジの花弁の奥の蜜。折り取り笛にした草の茎。氏神の社の縁の下の湿った土。アメンボがついつい走っていた水溜り。そういったものたちが発していた繊細な匂いを私は記憶のなかにしか持っていない。これからも嗅ぐことはできないだろう。記憶は遠く、ますます遠のいてゆく。というよりもうずっと前から無いのだろうか。私がいま、記憶していると認識しているものは、私の脳がつくりだしている幻覚か。
記憶という作用は優しい。優しさを分析してしまう自分の無粋さが寂しい。あほんだら。
痛覚と触覚に次いで嗅覚は肉体の外と内とを強く結びつけてくれる。活動を疎み人肌を疎む私にとって、嗅覚が死ぬことは外界からの隔離を意味するかもしれない。視覚と聴覚だけでも暮らしてはゆけ仕事もできるが。それはどうにもいまひとつ煮る甲斐のない無臭な生だな。つまらないとまでは言わないが。ムシューに寂しい。・・・玄関先で嗅ぎ当てたあの煮物の香りは本当に美味そうだったなあ。もういちど嗅ぎたいなあ。
最近の楽しみ。私の膝にのぼってきた児の髪に私の鼻をうんと寄せて、ふんふん嗅ぐのが好きだ。児の肌のにおいがうっすらと私の喉の奥に届く。たまに肺のあたりまで届いてくれる。ああ生きているんだなあと思う。私の外の世界には私の五感の鈍さなどおかまいなしに豊かなにおいを放ち生き生き生きているモノがたくさんいるのだよ。覚えとけ。いまのうち。嗅いで感じて、そうして記憶に刷り込んでおけ。
鳥を待つ wataritori @wataritori
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