5-10

 事務所へ戻ると、珍しいことに麗華が俺たちを出迎えてくれた。恭介は眠いからと言いその足で自分の部屋へ帰っていく。

 大して時間も経っていないのに懐かしさすら覚える事務所。やはり自分の居場所はここなんだという安らぎを感じた。

 渚砂はというと。待つことに疲れたのか、ソファベッドで眠っていた。

 ちょうどいいと、俺は事の顛末を麗華に報告する。

 帯刀が最後、岳人を射殺したことを。その理由も……。

 麗華は痛切な感情を隠すこともなくそれを聞いていた。


「あんなに安らかな寝顔をしている子からは、想像もつかない壮絶な人生ね」


 安心しきった顔をして寝息をたてている渚砂を見て呟く。

 普通じゃない。普通に生きていたら絶対に経験しないことだ。

 俺も、そして美夜も、過酷な経験をしてきた。でも渚砂はもっと辛かったはずだ。俺たちはまだいい。早くに出会えていた、自身を赦してくれる存在に。

 しかし渚砂は、この歳までほとんど一人で抱えて生きてきたんだ。その痛みと悲しみは察するに余りある。

 目が覚めた渚砂に何を伝えよう。穏やかな寝息に感情を絆されながらも悩んでいると、


「――渚砂さんはうちで保護するわ」


 さも当然のように麗華が告げた。


「確かに帯刀から困っていたら助けてくれとは言われたけど……いいのか、そんなこと勝手に決めても」

「黒羽を継ぐ者として、あたしが決めたんだからいいの。父にも文句は言わせないわ」


 言葉からは力強さを感じる。が、腕を組んでいるところを見るに、不安は感じているようだった。本当にいいのか自問しているんじゃなく、たぶん報告する際を想像して緊張しているんだと思う。

 無茶しなくても、と声をかけようとしたのだが。


「考えたことがある?」と麗華に機先を制され、言葉は喉奥に引っ込んだ。

「何が?」と訊ねると麗華は考えを口にした。


 帯刀が殺した岳人、それに全て処理済みという言葉。

 岳人が突然消えた、それが知れた場合、世間がどう反応するか。そして岳人は娘を探しているとテレビでコメントまでしていたこと。

 それと以前、恭介がブリードについての情報を得た際、特定の筆頭株主らで総会を開いていると聞いた。恐らく帯刀が言う『全て』というのは、岳人を含めたそれら総て、そういう意味だろうということ。


「たぶん帯刀は始末屋なんだと思うわ。証拠を残すことなく存在を消す裏世界の人間ね。気づいた時には行方不明者扱いよ」


 その説明を受けて、俺は先刻のことを思い出した。確かに部下たちはボスと呼んでいたなと。

 そしてさらに、それらを処理するという言葉の行間には、後顧の憂いも断っておくという意味も含まれるだろうと語った。


「それが何を意味するか、あんたなら分かるんじゃない?」


 俺なら分かる……。それはつまり――


「渚砂が神崎でなくなる……?」


 岳人が消え、たぶん一番の稼ぎ頭だったブリードが作れなくなる。そうなると組織は解体か破産か、はたまた統合か……。

 少なくとも神崎グループではなくなるし、それ以前に渚砂には身寄りがない。


「そういうことよ。黒鴉の手伝いで多少なりと社会を見ただろうけど、やっぱり箱入りなのよ。そんな状態で野に放つなんて出来ないでしょ? だから、自分で巣立てると思うまでは守ってあげなきゃね。本人が望むなら黒鴉に置いてあげてもいいけど」

「姉さん、なんか親鳥みたいだな」

「うちには黒い雛が多くて大変ね。ま、役立つ小鳥くらいには感じてるけど」


 まだ小鳥レベルなのか……そう突っ込みたいが今は止めておく。

 それに。保護の話は俺も納得出来た。

 麗華は時々妙な説得力を持たせてくるからな。

 というか、俺にはそこまで考えが及ばなかった。あの時は衝撃が頭を支配していたから。

 けど、こういう時に麗華がいると本当に助かる。冷静に俯瞰から見てくれている安心感。やっぱり、なんだかんだで見守ってくれてるんだ。

 親鳥という言葉は言い得て妙かな、あながち間違いじゃないかもしれない。

 自分のセリフに思わず噴き出すと、麗華から訝しげな顔が返ってくる。

 俺は誤魔化すために慌てて言葉を投げた。


「そ、その件は姉さんに任せるよ。なにかあれば俺も頭下げるからさ」

「あんたは気にしなくてもいいわよ。あの苦手な父にもそろそろ慣れないとね。この歳にもなって親にビビるとか、あたしのプライドが許さないし。ま、無理だろうけど」


 決意を速攻自分で否定していることに笑ってしまった。なんだか出会ったばかりの頃の麗華が思い出された。よく公園に連れていかれて愚痴を聞かされたっけ。

 事務所に和やかな空気が戻りつつある。

 こうして日常というものを取り戻していくのかもしれない。

 どんな時もそうだった。

 麗華がそれをしてくれる。美夜の時だって……。

 ふと静かすぎることを不思議に思い、隣に座っていた美夜を見ると――


「むにゃむにゃ」言いながら、船に揺さぶられるようにして動いていた。

「眠いなら上で寝て来いよ」


 肩を揺すって声をかける。

 すると重そうな瞼をわずかに開けて、とろんとした目で俺を見つめてきた。


「今日はレイちゃんと寝る~~」


 駄々をこねるようにしなだれかかってきて抱きつくと、美夜はそのまま寝入ってしまった。


「お、おい――」

「まあいいんじゃない? 今夜も寝てあげたら」


 柔和な顔をして諭すような物言いに、母親かよと内心つっこむ。


「……他人事だと思って」


 でもまあ、怖い思いをしただろうし、今夜くらいは大目にみてやろうかな。無事に美夜が帰ってきたとはいえ、帯刀がいなかったら今ごろは。

 それをさせたのも、肝心な夢を見られなかった、見てやれなかった俺の責任だ。睡眠薬まで飲んだのにこの体たらくさに呆れ返る。

 以前「昨夜だけ」と断っておきながらの現状に対してだろう麗華の「も」という言葉は、この際聞かなかったことにして……。

 そっと美夜を抱きかかえると、俺はいまだ穏やかに眠る渚砂を見つめた。

 俺たちが守る、その時が来るまで。それから先のことは、その時に考えればいい。

 自身の気持ちを確認し、そして踵を返した。


「姉さん……あとのこと、頼んでいいか?」


 訊ねると、俺の意図を察してくれたのか、麗華は微笑を湛えて頷いてくれた。


「頼らざるを得なかったとはいえ、あんたには今回任せっぱなしだったからね。夢を見るために体、酷使したでしょ? あとはあたしに任せて休みなさい。彼女には上手く説明しといてあげるわ」

「ありがとう、姉さん。……おやすみ」


 おやすみ、麗華の優しい声を背に、俺は事務所を後にした。

 エントランスまで下りると、間仕切りされた奥のベッドに美夜を寝かせ付け俺は窓際へ。チルトポールを回しブラインドのスラットを水平にすると、かろうじて望める月を窓から眺めた。

 ビルの影に抉れた歪な半月。

 今夜の出来事を思い返しながら、月が見えなくなるまでその姿を見つめ続けた。思い出を思い出として、心に刻むために……。

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