第64話 辿り着いた未来と、移り変わる世界 ①

「今年も綺麗に桜が咲いたね」


 右手にロフストランド杖を付けている女の子が桜の木の下で立ち止まり、上を見上げた。その隣で同じように男の子も桜を見上げる。


「そうだね。満開まではいかないけど、僕はこれくらいの方が好きだな」

「そうなんだ。私は満開の方が好きだけど、こうやって今年も一緒に桜を見れるだけでもいいかな」


 女の子はそう言いながら視線を隣の男の子に移し、誰もが目を止めてしまいそうな笑顔を浮かべた。だからこそ、違和感が目立ってしまう。それは健やかで晴れわたるような笑顔を浮かべるその女の子が杖という似つかわしくないものを持っているからだろう。

 そんな女の子の隣に立つ細身の男の子はどこか嬉しそうな困ったような笑みを返していた。

 そして、二人はまたゆっくりと歩き始めた。


 女の子は高校一年生の冬に事故に遭い、右足に後遺症が残った。高校を卒業した今でも定期健診とリハビリを繰り返していて、杖なしでも歩くことは出来るが、時々足に力が入らなかったりするので、そんな不安から杖が手放せずにいた。

 事故の原因は、運転手が突然の発作で意識障害を起こしたことだった。

 そんな不幸な事故に巻き込まれたのだが、その事故に至るまで二人には色々あったのだ。

 男の子は自分が事故に遭う未来を見て、それを回避する未来を選択した。大切な人をかばって事故にあったのだと知らずに。

 女の子は自分のわがままに付き合わせたことで男の子と事故に遭い、その男の子に命と引き換えに手に入れた色褪せた未来を見た。それを回避するために、大切な人の代わりに事故に遭う選択して、現在に繋がっていた。

 そして、二人はあの事故以来、未来を見ることがなくなった。もしかすると、この先の長い人生の中でまた未来を見るかもしれない。それ以前に未来が見えていたと思い込んでいただけなのかもしれない。

 だけれど、そんな不思議な偶然と時間の積み重ねの果てに、二人は同じ大学に進学して、大学から徒歩圏内の場所でこの春から同棲を始めたのだった。


「ねえ、あっくんは覚えてる?」

「なんのこと?」

「杖の話」

「やめてくれよ。今思い出したら、恥ずかしんだから」

「いいじゃん。私は嬉しかったよ。今でも昨日のことのようにはっきりと思い出せるよ」

「思い出すのは勝手だけど、話すのはやめてほしい」


 女の子はケラケラと笑い、男の子は目を細めながら照れたような表情を浮かべていた。

 女の子はその横顔を見ながら当時のことを思い返していた――。



 事故から半年以上が経った頃だった。辛いリハビリを重ねてきたおかげで、松葉杖も一本でよくなったし、家の中では杖なしでもなんとかなるようになってきた。

 だから、久しぶりに学校帰りにいつもの喫茶店まで歩いてみた。


「やっぱり長い距離歩くと疲れるね」


 そう言いながら椅子に座り、松葉杖を隣の椅子に立てかける。


「僕は隣で大丈夫かなって、ずっとひやひやしてたよ」

「あっくんは心配しすぎだよ。それに私より辛そうな表情してる」

「仕方ないだろ? だって――」


 何かを言いかけたタイミングでマスターが水を運んできて、注文を確認する。私たちはこの喫茶店の常連なので、特に何もなければ「いつもの」の一言で通じるのだ。今日ももちろんいつも通りで。


「それで、何を言いかけたの?」

「リハビリがんばって来た姿を知ってるからさ、また何かあって怪我したらって思うと、不安になるじゃん?」

「でもさ、無理にでも歩いたりしないと、筋力落ちてそれこそ歩けなくなっちゃうよ」

「そっか……」


 あっくんのまだ何か引っかかりがあるような相槌が気になってしまう。きっとまだ事故の原因は自分にあるのだと責任を感じているのかもしれない。その棘は時間をかけてゆっくりと取り除くしかできないのかもしれない。私も元を辿れば事故に巻き込まれる原因を自分が作ったという負い目があるので、こういうときに以前のように軽々しくあっくんに踏み込めなくなっていた。

 マスターがコーヒーとミルクティーを運んできてくれ、いつものように角砂糖を二つ入れてかき回す。

 そして、口をつけ相変わらずのおいしさに心がほっとする。あっくんもコーヒーをひとくち飲んで表情が柔らかくなったようだった。あっくんはカップを置くと表情が硬くなり、真っ直ぐに私を見つめてきた。そのことに私は背筋を伸ばして身構える。


「ねえ、りこはリハビリを続けていけば、日常生活を問題なく送れるようになるの?」

「今もそこまで問題はないよ? でも、そういうことじゃないんだよね」

「うん。どこまで回復するのかなって」


 その不安の色を含んだあっくんの視線を受けながら、ぽつりぽつりと言葉を絞り出す。


「先生とか理学療法士さんの話だとね、リハビリでそれなりに歩けるくらいにはなるだろうけど、将来的には車椅子が必要になるだろうって。でも、それは歳取ったらだから、何十年もあとの話」

「じゃあ、それまでは大丈夫なわけ?」

「正直なところ分からないんだよ。今はさ、急に痛くなったり、体重掛けたら支えきれずにバランス崩したり、他にもちゃんと一歩前に足を踏み出したつもりでも、半分も足が動いていなかったなんてこともあるんだ。それはリハビリとかで改善されるかもしれない。家の中くらいなら壁が近いから普通に見える感じで生活できるけれど、きっとこの先、基本的には杖は手放せないんだと思う」

「そうなんだ」

「うん」


 こういう話をちゃんとするのはどこか避けてきた。話したことで重荷を背負わせてしまったかもしれないと思うと、今のこの間がとても辛いものに感じてしまう。


「ねえ、りこ。正直なところ、杖は不便?」

「そりゃあね。なんかさ今ではどうやって普通に歩いてたのか不思議なくらいだよ」

「そう言うってことは、杖を使いたくないこともあるの?」

「あるよ。だけど、杖がないと不安なんだよ。でもさ、あっくんと歩くとき、手を繋げないのがなあ」


 あっくんは「そっか」と言いながら、顔を伏せてしまう。私としては笑ってほしい場面だったのに、そういう風に表情を硬くするなら、話さなければよかったかなと思った。そんな気持ちをいったん切り替えるために、カップに手を伸ばしかけた時だった。


「じゃあ、りこが杖なしで出歩きたいときはさ、僕が杖になるよ。腕組んで体重掛ければ、杖代わりになれるんじゃないかな? 手は繋げないけど似たようなもんだし」

「急にどうしたの?」

「どうしたもないよ。りこの歩くときの不安をどうしたら和らげることができるかって考えてたんだよ」

「それにしても“僕が杖になる”は少し恥ずかしくない?」

「たしかに。迷惑だったかな?」


 私は静かに首を横に振って見せる。


「嬉しいよ。でもさ、さっきの流れで私の杖になりたいって言葉はどういう意味合いになるか分かってる?」

「分かってて言ったつもりだよ。杖が必要にならなくなっても僕はそばにい続けたいと思ってる」


 それはプロポーズともとれそうな言葉で、あっくんもそれを理解しているのだと言う。私とずっといるということは不自由さも共有するということだ。共有するのはそれだけじゃない――。


「私の杖に本当になりたいの?」

「ああ」

「じゃあ、半分かそれ以上背負ってもらうことになるよ? 足にかかる負担も、抱えてる不安も、私の人生も――それでもいいの?」

「いいよ。それでずっと一緒にいられるという幸せを共有できるなら軽いもんだよ」

「ありがと……こんな私でいいなら支えてください」

「もちろんだよ」


 そう頷くあっくんの表情は柔らかいものだった。その顔を見た時、心が軽くなった気がした。きっと必要以上に気を張っていたのは私の方だったのだろう。自分でも表情が緩んでいるのを実感できた。

 そんな風に心から素直に笑えたのは久しぶりな気がした。それと同時に様々な感情が溢れてきて、涙が止められなかった。

 私はきっとこの日のことは忘れられないだろう。

 私の中では二度目の告白をされたようなものなのだから――。



 二人はゆっくりしたペースで桜の花びらが春風に舞う道を進んでいく。

 それとともに話題は移り変わっていき、さっきまでは別の大学に通う高校時代の仲が良かった友人たちの話で、それから大学の講義の話、最近買った本の話と尽きることがなかった。

 二人とも元来お喋りな方だけれど、会話がない時間も多い。それも仕方がないことで、一緒にいる時間が圧倒的に長いので、自分だけが知っているという話題も少ないのだ。そういうときはただ寄り添って、お互いを感じながらのんびりと同じ時間と空間を共有している。

 お互いが空気や水のようになくてはならないもので、そこにあって当然のもので、だけれど、一緒にいることが特別なことだと知っている。

 だから、ふいに目が合ったり、聞きたいときに声が聞けたり、触れ合って体温を感じたりするたびに、自然に何度も恋に落ち続けている。

 そうして、恋に落ちた先に未来と愛があるのだから――。

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