第72話 女神の目覚め・1
囁き合うように煌く幾つもの星が、黒いだけの夜空を美しく飾り立てていた。冷たい空気に浸された星々は凍えるように白く燃え、冬独特の冴えた光を降り注いでいる。
天界襲撃から数時間後、魔物が最も好む夜が訪れた。
魔物の力は夜の闇を借りて、更に強く凶暴になる。夜に紛れて移動する魔物に不意打ちをくらい、次々に倒れていく天使たちの血の悲鳴が、闇に包まれた天界に響き始めた。
(……まずいですね)
真下に聞こえる止む事のない悲鳴にきつく唇を噛んだルーヴァが、目の前のリリスを睨みつけたまま深く静かに息を吸い込んだ。
昼頃から休む間もなく続いている魔物との戦いに、天使たちはその力のすべてを使い果たしてしまっている。夜が深まるにつれ更に力を増す魔物たちに、今の天界が勝てる見込みはほとんどない。
「天界は終わりよ」
一言だけ呟いて、リリスがルーヴァに向けていた右手をゆっくりと引き戻した。夕方からずっと向かい合い、リリスの右手から放たれる邪気に短剣を核とした結界で応戦し続けていたルーヴァは、攻撃が途切れた事に心底ほっとして少しだけ肩の力を抜いた。
体は汗でぐっしょりと濡れ、呼吸も荒いルーヴァに対して、リリスは平然と余裕の笑みを浮かべている。天界の結界に傷をつけるほど膨大な魔力を放出していたにも関わらず、呼吸ひとつ乱さないで更に強い攻撃を仕掛けてくるリリスに、ルーヴァはかすかな疑問を感じて目を細めた。
天界に属する者でありながらそれに反した行動を取ったリリスは、間違いなく闇に操られている。例えどんな場合であろうと正面から真っ直ぐに立ち向かうリリスの性格を、ルーヴァはよく知っていた。そのリリスがカインを奪い返す為だけに闇に堕ちるとは、どうしても考えにくい。
そしてリリスを操る闇の魔物は、彼女の命そのものを削って戦っているのだ。自分の体を傷付ける事もなく、リリスの体と力と命を己の盾として。
「……相変わらず、あなたたちは卑怯な手を使うのですね」
呆れたように言って、ルーヴァが結界の核となっていたサファイア色の短剣を右手に強く握りしめた。
力を使い果たし本来の輝きを失った短剣では、もう攻撃を仕掛けるどころかまともに防御の結界を張る事すら難しい。濁った水底のように変色した短剣と、肩を大きく上下させて呼吸するルーヴァは、赤子同然に無力の生き物と化す。少なくとも勝利を確信したリリスの目には、そう映っていた。
「ルシエル様は、まもなく復活なさるわ。今更生き延びたところで何になると言うの? 天界は闇に飲まれ、世界は暗黒の時代を迎える。ルシエル様の時代がやっと訪れるのよ!」
両手を広げて高らかに笑ったリリスを見つめながら、ルーヴァがふうっと大きく溜息をついた。
「いい加減、自分の声で話したらどうです?」
「……何?」
「私はリリスと話をしているのではなく、あなたとしているのですよ。それとも、あなたは私が怖くて彼女の中から出て来れませんか? ……それもそうでしょうね。我が身の可愛さあまり、リリスを盾にしていたのですから。体力を減らす事もなく、傷を受ける事もない……下劣な下等魔物が」
「貴様っ!」
ルーヴァを睨みつけたリリスの瞳、その瞳孔が縦に細長く伸びきった。それと同時に赤い唇から発せられた声はリリスのものとはほど遠く、落雷のように太い音を空一面に響かせる。
「言わせておけば調子に乗りおって! わしの攻撃を避けるだけで精一杯だった若造が良く吠えるっ!」
「無駄に彼女を傷付ける事は避けたかったので」
しれっと答えたルーヴァの態度に更に怒りを爆発させた魔物が、獣の雄叫びのような声をあげてリリスの体から激しくうねる赤黒い妖気を放出させた。
「わしを怒らせてただで済むと思うなっ!」
「私と戦いたくば、本性を現しなさい」
「無駄だっ! この女はわしと同化した。もう誰にも救えまいよ」
馬鹿にしたように笑いを含んだ声で叫んで、魔物がリリスの両手を左右に大きく広げた。そこに先ほど体から溢れ出した赤黒い妖気が吸い寄せられるように絡みつく。
「この女は死ぬ。そして、お前もな」
「……――確かに、リリスは戻らない」
感情のない声が、静かに響いた。
魔物と戦いながらリリスの様子を伺っていたルーヴァは、それが間違いではないことも理解していた。魔物に体を乗っ取られ、望まない戦いを死ぬまで続けさせられる。プライドの高い彼女は、きっとそんな自分が許せないだろう。
「わしを侮辱した罪の重さを知るがいいっ!」
そう叫んで魔物が勢いよく両手を振り下ろしたその瞬間。
「罪の重さを知るのはお前だ。愚か者」
その人物から発せられるにはあまりにも冷たい、感情を殺した低い声。おそらく今まで誰ひとりとして、彼のその声音を耳にしたものはいないだろう。戦友であるカインと、死に逝く運命である魔物を除いては。
鈍い音を間近に聞いて、魔物が目を見開いた。
振り下ろしたはずの手は真横でぴたりと動きを止め、そこに集まっていた妖気も戦意を無くしたようにはらはらと消滅していく。止まってしまった右手を動かそうとするより先に、魔物の体に鋭い痛みが電流のように駆け巡った。
「ぐあっ!」
呻きながら顔を向けた先に、サファイア色の短剣に貫かれた己の右手があった。苦し紛れにそれを引き抜こうとした左手にも、同様に鋭い刃が深々と突き刺さる。まるで真後ろに見えない壁があるように、魔物の……リリスの体は両手を貫いた短剣によって空中で磔にされていた。
白い手のひらから細い手首を伝って流れる赤い血はリリスのものであって、彼女を乗っ取った魔物は何の傷も負っていない。ルーヴァはリリスの体を捕らえる事で、その中に潜む魔物を縛り付けたに過ぎなかった。
「女を捕らえ、わしを制したつもりか? 女は戻らぬと言っただろう。愚かなのはお前の方だな」
「リリスは戻らない。……しかし、最期まで魔物に汚される事を、彼女は望まないはずだ」
冷たい視線を向けてそう言い切ったルーヴァの手の中に、新たな短剣が召喚される。その意図を悟り、魔物の顔から笑みが消えた。
「……まさか、お前……っ!」
「仕方のない事だと割り切っている」
ルーヴァの翼が大きく羽ばたき、彼の手に握られた短剣が強い光を放ち始める。美しくも恐ろしくもある冷たいサファイア色の光に恐怖した魔物が、瞳孔の細長く伸びた赤い眼を大きく見開いた。
迫り来る天使から感じるものは、紛れもなく強い殺意。逃げようにも逃げられず、唯一自由の利く目を無意識のうちに閉じるより早く、魔物の耳に肉を裂く聞きなれた音が届いた。
口の中に充満した鉄の味と、乗り移った魔物にまで伝わった胸元の激痛。ゆっくりと視線を下げたその胸元に、柄まで深々と突き立てられた短剣がまるで飾りのように輝いていた。
白銀の柄に滴る鮮血を生々しく映した瞳から爬虫類のようだった細長い瞳孔が消え、それとほぼ同時にリリスの背中からどす黒い瘴気の塊が弾かれたように飛び出した。空気に触れ、人に似た形を留めながら闇に逃げ込もうとする魔物の後を、冷ややかなルーヴァの声音が追いかける。
「逃がすと思うか?」
リリスとまったく同じ場所に短剣を埋め込んだ魔物を見上げたまま、ルーヴァが新たに一本の短剣を上空の魔物めがけて投げつけた。その胸に柄まで食い込んだ短剣とルーヴァの投げつけた短剣が引き合うようにぶつかり合ったその瞬間、魔物の体が絶叫をあげて粉々に吹き飛んだ。
暗い夜空に赤い体液を染み込ませながら飛び散った魔物の破片は、ルーヴァに降りかかる前に風に攫われて跡形もなく消滅する。消えていく魔物から腕の中のリリスへ視線を移したルーヴァは、空いた片手で髪と服を簡単に整えてから安堵したようにふうっと息を吐いた。
「まったく。私はもう天界戦士を引退した身なんですよ?」
腕の中でぐったりとしたまま動かないリリスに向かってそう言ったルーヴァは、少し意地悪そうな微笑みを浮かべながら、ぱちんっと小気味良い音を立てて細い指を鳴らした。と同時に、リリスの両手と胸に突き刺さっていた短剣が空気に溶けるようにふわりと解けて消え失せる。
「目の前で患者を増やすほど、馬鹿な医者ではありませんからね。私は」
魔物が消えた闇に向かってそう言ったルーヴァは、両腕にリリスの体をしっかりと抱き直して、暗い夜空を滑るように降下していった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます