第71話 愛のかけら・3

 窓からオレンジ色の光が差し込んでいた。


 小花の刺繍をあしらったピンク色のテーブルクロスの上には、親子三人分のささやかな夕食が準備されている。振り返った居間に置かれた小さめのソファーの上には、お気に入りのぬいぐるみがシェリルを見つめて座っていた。


「どうしたの、シェリル? スープが冷めてしまうわよ」


 後ろから聞こえた声に驚いて再びキッチンへ目を向けたシェリルの前に、今はもういるはずのない二人が優しい笑みを浮かべてそこにいた。

 シェリルの大好物だった少し甘いミルクのスープと、肉と野菜を煮た簡単な料理、そして木の実を練り込んだ手作りのパン。温かな湯気の中に、シェリルが失ってしまったささやかな幸せがある。焼きたてのパンの頬張る父と、シェリルにゆっくり手招きする優しい母。シェリルが望んだ幸せの、虚像。


「……お父、さっ……。か……さんっ」


 その場に立ち尽くしたままぼろぼろと涙を零したシェリルは、まるで十歳の少女のように大声を上げて泣き始めた。


「あらあら、一体どうしたの? また、カインと喧嘩でもした?」


 幻とは思えぬほどしっかりと体を抱きしめてくれた母親に、シェリルがはっと目を見開いた。潤んだ瞳がゆらりと動いて、大粒の涙がシェリルの白い頬を滑り落ちる。


「……カインを、知ってるの?」


「私たちはずっと側にいるのよ、シェリル。側であなたを見守っているわ」


「…………カインが……ルシエル、だった事も?」


 見上げたままかすかに首を傾げたシェリルに、母親がゆっくりと頷いた。


「……わたっ……私っ、もうどうしたらいいのか、分からないっ! カインは戻らないわ。天界も襲われて、私は……またひとりになってしまう。何も出来ずに、誰も助けられずにっ!」


「ひとりですべてを背負ってはいけないよ」


 強くしっかりとした声と同時に、シェリルの頭を大きな掌が優しく撫で下ろした。その手から感じた包まれるような温もりに、シェリルが身を任せて瞳を閉じる。


「お前は落し子じゃない、シェリルだ。ひとりの人間として、ひとりの女としてお前は今何を望んでいる?」


 父の言葉に誘われるようにして、シェリルの唇がかすかに動く。それはシェリルの心の奥にあって、どんな事が起こっても決して消える事のなかった想い。シェリルだけの真実。


「……――――カインに……会いたい」


 カインはルシエル。

 ルシエルは闇。

 闇は憎しみを駆り立てる敵。

 しかしカインと過ごした時間は何よりも大切であり、それに変わるものなど他には何もなかった。


「ごめっ……な、さい。私、カインを憎むなんて出来ない。仇なのにっ、殺せない!」


「復讐こそ無意味だ」


 はっきりと父親が言い切った。


「お前は愛を知った。シェリル、お前はもっと強くなれる。それは誰かを傷付ける為の力じゃなくて、愛しい者たちを守る強さだ」


「……怒ら、ないの……?」


 小さな子供のように怯えた目を向けたシェリルに、二人はほとんど同時に首を振って微笑んだ。その影が、だんだんと薄くなる。


「自分の信じた道を行きなさい」


「私たちはあなたの幸せを望んでいるの」


 優しい声音は光に溶けて、二人もまた柔らかな光と同化するように薄く揺らめいて消えた。追いかけるように伸ばした手を淡い光が包み、それはシェリルの心の中にまで温かく染み込んでくる。

 最後まで心に優しく語りかけてくる二人の声にゆっくりと瞳を伏せた瞬間、瞼の向こうでシェリルを包んでいた光が沈むように消滅した。






「……――――カインに……会いたいっ」


 それはシェリルの唇からはっきりとした音として零れ落ち、同時に地界ガルディオスには存在しない眩いほどの光がシェリルを中心にして勢いよく膨れ上がった。


「何だとっ!」


 シェリルの胸を貫こうとしていたルシエルの左腕は見えない力によって弾き飛ばされ、驚きに大きく見開かれた淡いブルーの瞳をシェリルの光が包みこむ。

 創世神アルディナの光ではなく、それはシェリルの光だった。カインを呼ぶ、彼女だけが許された純白の光。


「ぐあっ!」


 闇しかない心に突然手を伸ばしてきた真白い光の渦に耐え切れず、ルシエルはシェリルを突き飛ばしてその場にがくんと膝をついた。何が起こったのかも分からないまま前に倒れこんだシェリルが顔を上げて後ろを振り返ったそこに、片手で頭を強く押えて蹲るルシエルの姿があった。


 ぎりっと強く歯を食いしばったルシエルの薄い唇の端からつうっと流れ出た細い血の線が、黒に染まった彼を闇の中にくっきりと浮かび上がらせる。その色に一瞬気を取られたシェリルの前で、ルシエルのマントが風もないのに激しくあおられ始めた。そこから辛苦の表情を浮かべた黒い瘴気がぶわりっと溢れ出したかと思うと、それは再びルシエルの中に吸い込まれるように消えていく。


「…………」


 闇を漂う音もない小さな声、それは迷う事なくシェリルの耳にはっきりと届いた。はっと目を見開いてルシエルを凝視したシェリルの翡翠色の瞳が、かすかに熱を取り戻した淡いブルーの瞳と重なり合う。


「…………早くっ……行け!」


 今度ははっきりとした音としてその声を聞いたシェリルが、更に大きく目を見開いた。


「今のうちに……早くっ!」


「カインっ!」


 手を伸ばし駆け寄ろうとしたシェリルを拒むかのように、瘴気と闇が激しく渦を巻き始める。


「いや! カインっ!」


「俺の事は……もう忘れろ! ……俺はお前を守れないっ」


 体の中で暴れる闇を必死に抑え込みながら苦しげに叫んだカインが、二人を隔てる瘴気の向こうからシェリルを真っ直ぐに見つめ返した。

 シェリルを見つめ続けた優しい瞳が、すぐ近くにある。それなのにシェリルは先に進む事はおろか、迂闊に手を伸ばす事も出来ない。

 すぐ側にいるのに触れられない。求め続けた存在は何よりも近くにいながら、何よりも遠かった。


「カイン! カインっ!」


「……――――シェリル」


 懐かしい声で名前を呼ばれて、シェリルがはっと顔を上げる。その目に映った他の誰でもないカインの姿に、シェリルの胸が切ない色に染まった。


「……俺を憎め。そして、次に会った時は……――――迷わずに殺せ」


 カインの言葉はシェリルの時を完全に止める。一番聞きたくなかった言葉は、カイン自身の口から発せられた。


「お前の手で……俺を殺してくれ」


 その言葉を合図に二人を隔てていた瘴気が大きく膨れ上がり、そして轟音を響かせながら粉々に破裂して砕け散った。


「カインっ!」


 シェリルの声は闇のかけらに攫われて、カインに届く事なくぼろぼろに崩れ落ちた。


「カインっ!」


 地界ガルディオスを激しく震わせた闇は嵐のように荒れ狂い、シェリルもカインもすべてを巻き込んでいつまでもおさまる事はなかった。







 ――――どうして。


 それは漠然とシェリルの脳裏に浮かび上がった。


 ――――カインはもう戻らないの?


 誰に問うわけでもない呟きは、シェリルの中からある答えを連れて来る。



『闇を照らす光となれ』


『ルシエル様を、救って』



 それはかけらが望んだ事。かけら自身に託されたアルディナの願い。


 ――――カインはルシエル。でも……私は、彼を救いたい。


 アルディナとシェリルの願いは、長い時を越えてやっと重なり合った。







 気が付くと、シェリルは誰もいないアルディナ神殿の中庭に倒れていた。見上げた空に瞬く星が、シェリルを優しく見下ろしている。

 カインと同じ色をした闇夜を仰向けのまま見つめていたシェリルは、やっと止まった涙を拭おうと重くだるい右手を上にあげた。その手にしっかりと握りしめていたものを瞳に映して、シェリルが弾かれたように勢いよく体を起こす。


『お前は愛を知った。シェリル、お前はもっと強くなれる。自分が信じた道を行きなさい』


 シェリルの右手に握られていたのは、ルシエルにもぎ取られ、闇に飲み込まれたはずの白い羽根だった。


「……カイン」


 名前を呼ぶだけで、枯れたと思われた涙が再びシェリルの頬を濡らす。白い頬を滑り落ちた熱い雫は、胸に抱いたカインの羽根にやんわりと受け止められた。シェリルの思いを包み込むように熱い涙を吸い込んだ羽根はほのかに赤く輝きながら、シェリルの手の中で徐々に形を崩し始める。


『私はルシエルを救いたかった。ただ、それだけだった』


 どこかで確かにアルディナの声がした。

 赤い光を放つ羽根は、やがてシェリルの手のひらに乗るくらいの小さな石に姿を変えた。そしてそれは他のかけらと同様にするすると解けて、シェリルの胸で揺れる紫銀の三日月に引き寄せられるように吸い込まれていった。

 瞬きする間に赤い石を吸収した三日月を片手でぎゅっと握りしめて、シェリルは深く息を吸う。


「……愛のかけら」


 三つのかけらを吸収した三日月は、シェリルの手にかすかな鼓動にも似た音を伝えてくる。

 ついに三つのかけらを手に入れた。創世神アルディナは、永い眠りから解き放たれる。そしてシェリルは……。


「カインを助けるわ。闇から、必ず解放してあげるから」


 泣くだけ泣いた。もう迷わない。

 きゅっときつく唇を噛み締めて、シェリルは小さくカインの名を呼んだ。

 復讐は意味を持たない。すべてを受け入れ、それでもシェリルは自分が選んだ道を突き進む決意をした。

 闇と向き合い、憎しみを捨て信じるものの為に戦う。


「今度は私が……私がカインを守るから」


 シェリルの決意を称えるように、幾つもの星が夜空を彩るように流れていった。

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