第64話 天界襲撃・3

 何度通っても、シェリルはこの風の回廊に渦巻く風の衝撃に慣れる事が出来なかった。


 腰まである長い髪はひとつに束ねているわけでもなく、どんなに強く手で押えていてもそれは無駄な行為にしかならない。天界へつく頃はシェリルの髪はひどく乱れて絡まり合い、それを直すのにはかなりの時間を要したし、おまけに軽い眩暈までもが襲ってくる。

 荒れ狂う風と髪を直す手間と眩暈を今日も経験するのかと思い溜息をついたシェリルだったが、ルーヴァに連れられて入った風の回廊はいつもとはまったく違う感覚を二人に与えた。


 甘い蜜のように体にねっとりと絡みつく風の吐息。それは髪を巻き上げる事もなく、シェリルたちを蜘蛛の糸で絡め取るように巻きついて、そのままゆっくりと天界へ引き上げていく。考えられないほどの静けさに漂うかすかな闇の気配に、シェリルの鼓動が早鐘を打つ。


「様子が変ですね」


 そう言って訝しげに周りを見回したルーヴァが鋭い視線を上空へ投げかけたまま、シェリルを支える腕にぎゅっと力を込めた。


「シェリル、何があっても私から離れないで下さい。いいですね?」


 何が起ころうとしているのか分からなかったが、邪悪な気配だけははっきりと感じ取る事が出来る。返事の代わりに頷いて、シェリルはルーヴァにしがみ付いた腕に力を込めた。その瞬間上空で光が炸裂し、天界レフォルシアが緊張した面持ちの二人を中へ招きいれた。


 風が変わった。

 かすかに漂う生臭い匂いにむっと目を細めたシェリルの前で、自分たちを包んでいた光が完全に消滅する。その光の向こうに見えた天界の姿に、シェリルとルーヴァが言葉を失った。

 あのマイペースなルーヴァでさえ取り乱し、シェリルを置いてそのままひとり飛び去っていくところだった。


「これは一体……っ」


 そう言ったきり口を閉ざしたルーヴァはひとつしかない目を大きく見開いて、階段の下に広がる天界をぐるりと見回した。


 闇に包まれていた。

 神聖な天界にあるべきものではない邪悪な闇の瘴気が、街をすっぽりと覆い隠している。


「どうして闇がっ!」


 驚いて息を飲んだシェリルの耳に、何かが罅割れる高く細い音が届いた。同じようにその音を耳にしたルーヴァの表情が、一瞬にして青ざめる。


「まさかっ」


 勢いよく空を見上げたルーヴァにつられて上を向いたシェリルの瞳が、黒い空に白い線で描かれた模様にも似た亀裂の群れをはっきりと映し出した。その隙間から滑り込むように垂れ落ちた黒い油のような塊が、赤い目をぎらつかせながら街を覆う闇の中に溶け込んでいく。


「魔物っ? どうして!」


「結界を破壊してしまうほど、闇の力が強まったと言う事ですかっ!」


 きゅっと唇を結んだルーヴァの顔は更に青ざめ今にも倒れてしまいそうだったが、それとは反対にシェリルを支える腕の力は強さを増していく。


 結界にべったりと張り付いた魔物の群れ。それによって光を遮られ、闇と瘴気に満ちた天界。絡み合う呪文と鋭い剣の悲鳴。弾け飛んだ天使の羽に、間を空けず群がった黒い影。

 あの美しかった天界が、一瞬にして戦場と化していた。


「結界は……。姉に何かっ?」


 ぐるりと視線を巡らせて、崖の上に建つ月の宮殿を鋭い目つきで睨みつけたルーヴァが、ほとんど同時に背中の翼を大きく羽ばたかせて一気に空へ駆け上がった。


 結界を守る天界魔道士の最高責任者であるセシリア、その彼女が守るべき結界の崩壊を黙って見過ごすはずがない。それなのに結界は崩れ落ちるのを待ち、結界の核とも言える水晶球がある月の宮殿の屋上は神聖な光を握り潰す邪悪な黒い闇に支配されようとしていた。

 ルーヴァの焦りと不安を直接肌に感じたシェリルは、月の宮殿の屋上で激しく渦巻く闇を見つめながら、セシリアが無事であるようにと強く祈る。しかしそんなシェリルを嘲笑うかのように、水晶球を覆い隠した闇は更に大きく邪悪に膨張を続けていった。


 屋上の様子が肉眼でも確認できるまでに近付き、そこに数人の天使たちの姿を見つけてシェリルはほっと胸をなで下ろした。

 屋上に描かれていた白い魔法陣を中心にして渦を巻く闇と、その周りを取り囲む数人の魔道士。膨張し、水晶球もろとも結界を破壊しようとしている闇を押さえる為、繰り返し呪文を唱える魔道士たちの中にセシリアの姿があった。

 集結した魔力は水のヴェールのように闇に纏わりついては粉砕され、完全に闇をくい止める事が出来ず、魔道士たちの力だけを奪っていく。ひとり、またひとりと倒れていく中で、セシリアだけが変わる事なく強い魔力を出し続けていた。


「姉さんっ!」


 二人が風の回廊から天界へ現れた事を気配で既に感じ取っていたセシリアは、真後ろに聞こえたルーヴァの声に表情を緩めて、乱れた呼吸を整える為に深く息を吸い込んだ。


「ルーヴァ、良かったわ。あなたは街へ降りて他の人たちと一緒に戦ってちょうだい。カインがいなくて彼らを纏める人がいないのよ」


「再び武器を持つ事になるとは……。腕が鈍ってないといいんですがね」


 そう言って軽く腕を回したルーヴァの手に、どこからともなく現れた光がくるくると絡み付き、指と指との間でサファイア色の短剣に姿を変えた。


「危ないですからシェリルは宮殿の中に隠れていて下さい!」


「でもっ」


 背中の翼を広げて再び空へ駆け上がったルーヴァを追うように二、三歩前に進み出たシェリルは、言おうとしていた言葉を飲み込んで諦めたようにこくんと小さく頷いた。


 ついて行ったところで、魔物相手に戦えるはずもない。己の無力さを知り唇をきゅっと噛み締めたシェリルは、ルーヴァとセシリアに背を向けて宮殿の中へ通じる扉の方へと歩き出した。

 苦労して手に入れた女神の力も、使えなければ意味がない。


(無力だわ……)


 心の中でぽつりと呟いて、シェリルが大きく溜息をついたその時。


『それは、お前が無力だと思っているからだ』


 不思議な風が、シェリルを取り巻いた。風はくるくると螺旋を描きながらシェリルに優しく触れ、そしてあの高貴な響きを持つ声をシェリルの中にもう一度木霊させる。


『我が力を受け継ぐお前は誰よりも強い』


「……アルディナ様?」


 驚いて顔を上げたその途端、シェリルを優しく取り巻いていた風がごうっと激しくうねり始めた。その風の猛威ははるか上空まで手を伸ばし、罅割れた結界の僅かな隙間から侵入した魔物の群れを一瞬にして切り裂き、天界を覆う闇の瘴気まで遠く空の彼方へ吹き飛ばしていく。


 突然現れた神聖な光を絡ませた竜巻に、成す術もなく消し飛んだ魔物を呆然と見つめたルーヴァの前で、シェリルを包む風と光が今度はひとつに纏まって水晶球と魔法陣を覆い隠す闇の柱めがけて勢いよく飛びかかった。

 天界全体を激しく揺らす轟音に、宮殿を支える柱までもがみしみしっと鈍い音を響かせる。辛うじて維持し続けてきたセシリアの結界をいとも簡単に突き破った渦巻く風の塊は、枷を失い溢れ出した瘴気よりも数倍早くその中心に蠢く闇の核を見事に粉砕した。


「シェリルっ?」


 爆風のように激しく行き過ぎる風の残骸に煽られながら、セシリアがシェリルの元へ駆け寄った。シェリルの無事を確認し、再び水晶球へと振り返った先で、膨張していた闇が浄化され消えていく様子を見たセシリアが驚きを隠せずに言葉をなくす。


 天界魔道士の最高責任者であるセシリアでさえくい止める事が出来なかったあの闇を、シェリルは一瞬にして消滅させたのだ。その力の影にかすかに感じた、気高く聡明で何よりも強く優しいもの。あれは。


「シェリル、大丈夫?」


 消えていく闇を呆然と見つめたままのシェリルの肩に、セシリアがそっと手を置こうとしたその瞬間。


「危ないっ!」


 頭上に聞こえたルーヴァの声と重なるようにして、シェリルとセシリアの足元で低く潰れた短い悲鳴が木霊した。


「ぐえぇっ!」


 不気味な声を発したそれは、空から投げ落とされたルーヴァの短剣に掌くらいの頭部を突き刺され、鋭い歯をむき出しにしたまま蛇に似た胴体をぐねぐねとばたつかせていた。

 深々と突き刺さった短剣によって逃げる事も出来ず、その場に捕われたままのた打ち回る気味の悪い魔物が、逃げるように後ずさりしたシェリルを血走った目でぎろりと睨みつけた。


「なっ、何……この魔物」


「大丈夫ですよ。これにもう力はありません」


 怯えてセシリアの腕にしがみ付いていたシェリルに、空から降りてきたルーヴァがにっこりと笑いながら、魔物に突き刺した短剣を無造作に引き抜いた。それと同時にべしゃりと潰れた悲鳴を上げながら、魔物が焼け焦げたようにぼろぼろと崩れ落ちる。


「シェリルに敵意があったのは間違いないですね。……だとすると、ルシエルが?」


 魔物から引き抜いた短剣を掌にしまい込みながらぽつりと呟いたルーヴァの言葉に、セシリアがぎょっと目を見開いて思わず声を張り上げた。


「ルシエル? まさか闇の王がこの天界を襲ったと言うの?」


 答えは闇の中から返ってきた。

 黒い憎悪にまみれた、静かで冷たい女の声で。


「違うわ、セシリア。彼はまだ目覚めてはいない。天界を襲い、結界を壊そうとしたのはルシエル様じゃなくて――――この私よ」


 さあっと風が吹いて、魔法陣と水晶球を未練がましく覆っていた闇が、完全に消滅する。その闇の向こうにいたものが見事なブロンドの髪を風になびかせながら、血のように赤い唇を横に引いて、にぃっと笑った。

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