第63話 天界襲撃・2
遠くで人を嘲る高笑いが聞こえる。
笑っているのは幾重にも重なった不気味な声のようでもあり、はるか昔の自分自身のようでもあった。
『我を制する事が出来るとでも思ったのか?』
――――闇だ。闇の中から、あの……俺の声が木霊している。
『昔も今も、お前は愚かだな。我はお前だと言う事を忘れたのか? ルシエルであった頃の記憶を取り戻しても、お前はそれを拒むと言うのか?』
黒い鎖に自分の体が繋がれているのを、カインは正面から見つめていた。体は闇に捕われ、カインの精神だけが暗黒の空間を浮遊している。
自分の中にあの声が響く度、カインはそれを追い出そうと頭を強く横に振る。しかし体の内側にべったりと張り付いたルシエルの人格は消える事なく、反対に血塗られた記憶を引き連れたままカインの中に深く深く染み込み始めていった。
『ここから抜け出せるのなら
救いを求め、弱々しく伸ばしたその手を掴んだのは、願いを聞き入れた
それが
『それでも俺はすべてを捨て、光の元へ戻る事を望んだんだ』
自分が
その声、その手触り、その意識、それまでもが永い眠りから目覚めようとしていた。
――――我は闇の王ルシエル。
狂気を選んだのはルシエル。
天地大戦で多くの天使たちを殺めてきたのはルシエル。
女神を愛し憎み、殺そうとしたのはルシエル。
落し子シェリルの両親を殺し、彼女の命を狙うのもルシエル。
――――それは お前の名だ。
封印されていたルシエルの人格とカインの記憶が頭の中で入り乱れ、複雑に絡み合っていく。自分が誰であるのかさえ曖昧になり、朦朧としていた意識を必死に引き止めていたカインの目の前で、暗黒の瘴気が闇に捕われたカインの肉体へ幾つもの触手を伸ばし始めた。
「やめろ。俺の体を奪うな! 俺の中からルシエルを呼び戻すなっ!」
絶叫にも似た声は空間に響く事なく、唇の先で干上がって砕け散る。
今のカインに力はなかった。肉体は闇に縛られ、それを見つめるだけしか出来ない精神体のカインが、闇を追い払うだけの力を出せるはずがない。
『何を言う。お前こそが偽りの人格だと言うのに。――怯える事はない。お前はルシエルに戻るだけだ』
耳元で、
『我はお前に、お前は我に』
逃げる暇もなかった。闇はあっという間に精神体のカインへ覆い被さり、体の自由を、声を、意識を奪い去っていく。
「くっ!」
同じように目の前で闇に捕われている自分の体へ必死に手を伸ばしたカインは、その指先が黒く変色している事に気付いて愕然と目を見開いた。
『落し子はお前の手で殺してやる。我から遠ざけ、天界へ匿おうとしても無駄だ。我が既に精神体で動いていた事は知っているだろう?』
押し殺した笑い声と共に聞こえた
カインに出来る事は何もなかった。
生命あるものが死に逝くように、それは初めから定められていた運命だった。封印が解ける事も、カインがルシエルに戻る事も、遠い昔から決められていたのだ。そう、創世神アルディナによって。
――――元に戻るだけだ。
遠くで声が木霊した。それと同時に闇と瘴気に包まれたカインの体から、漆黒に濡れた二枚の大きな翼が絶望の音を響かせて勢いよく飛び出した。
『お前は眠れ』
ずるりと侵入してきた不快な声はあっという間にカインの居場所を奪い、カインはそのまま自分の精神の奥深くへと突き落とされる。どこまでも深く、底も見えない光もない闇の世界へどんどん落ちていく感覚を知っているような気がして、カインは誘われるがままに瞳を閉じていった。
(終わりのない闇。永遠に続く孤独。……届かない光。俺は、知っている)
呪ったのは自分の運命と心の弱さ。光を求めさえしなければ、苦しみ狂う事もなかった。逃げ場を探し、闇に手を伸ばす事もなかったのに。
(……そうだ。俺は、ここから逃げ出したかった。光を憎んでしまうほど求めていたんだ。そして、闇から逃れる為……闇に触れた)
記憶を遡るようにゆっくりと手を伸ばしたカインの指先が、何かを掠めた。
『離れてしまうのはとても不安なの。だから……お願い、帰って来て』
それはカインがずっと求めていたもの。けれど闇に捕われ、永遠に落ちていくカインに……その声が届く事はなかった。
広い大聖堂に流れる静寂を突然破った高い音に、クリスティーナがはっと顔を上げた。高い天井の空気まで震動させたその音の出所へ視線を向けると、エレナが床に屈み込んでいるのが見える。
「エレナ様?」
「三日月の聖印が……」
そう言って床から拾い上げた三日月の首飾りを不安げに見つめたエレナが、震えるように首を緩く振った。
「鎖が切れたのですか?」
神官長の象徴とも言える金の三日月の首飾り。それをエレナが外したところをクリスティーナは今まで一度も見た事がなかった。こんな形で目にするまでは。
「何か、良くない事でも……」
言いかけて口を閉じたクリスティーナは自分の言葉に不安を覚え、それを否定するように唇をきゅっと噛み締めた。クリスティーナと同じようにエレナの頭の中にも、金の三日月とは色を違えた紫銀の三日月を持つ乙女の姿が浮かび上がる。
「良くない事は感じます。でも、あの子には聖なる守護者がついています。きっと大丈夫ですよ。私たちはここで、シェリルの為に祈りましょう」
「はい、エレナ様」
二人に返事でもするかのように、エレナの手の中では金の三日月がいつまでも淡く光り輝いていた。
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