命題3.吸血鬼 テオ 3
テオとマルテが治療院を訪れてから、一週間が経った。
その
「正直、他の患者が来ることがなくて良かったよ……さすがに他を構ってる余裕がなかった。」
アダムスは安堵と疲労を交え、大きくため息をつきながらスプーンを置いた。キツネ達については、頭数に入れるほどではないらしい。
今日の夕食も、小さく切ったベーコン入りの芋のポタージュだ。基本的に、少女の食事は芋のポタージュがメインである。栄養を考え、細かく刻んだ野菜などを混ぜてくれることもある。
素朴な味で少女の味覚にもぴったりだが、さすがの彼女も少し飽きてきていた。
少女の身体には、火傷や切り傷などの物理的な傷跡が無数にあった。彼女を
アダムスはマルテの治療で忙しい中も、時間を見つけては少女の怪我の治療も進めてくれていた。ひどい傷には治癒術を、他にも湿布薬や包帯を巻いて、少女の身体に負担がかからない
だが、これはあくまで表面的な回復にすぎない。いくつもの生物の身体をより合わせた
これは存在するだけで強い痛みを伴っていた。治癒術をかけただけでは無くならない。
特に、首を貫く無骨な鉄棒は、少女の喉や声帯にも甚大な被害をもたらしている。おかげで食事はポタージュのような液状のものに限定され、声を出すこともままならず、意思疎通は困難を極めていた。
少女の身体の治療については、早期に根本的な解決を目指す必要があり、改めて身体を詳しく研究する必要があった。
だが、
そういった事も、彼は少女に説明してくれていた。「当てがあるから安心して。」と少年は努めて明るく語っていたのを思い出す。
少女は、当てとはアダムスの
「そういえば、ここんとこテオの姿を見かけないよね。マルテの側にはいるみたいなんだけど、僕が部屋に入ると誰もいないんだよなぁ。まさか彼女を置いて……なんて事するような奴ではないと思うけど。ねぇ、君は見かけなかった?」
首を傾げるアダムスに釣られて、少女を首を傾げる。
少女もまた、あの物置の一件以降、彼を見かけていない。コウモリも見た覚えがない。
行儀悪くスプーンをくわえ、明後日の方向に目をやりながら記憶を辿ってみる――マルテがいる遮光部屋から、彼の声が聞こえてくることはあったので、治療院内にはいるはずだ。
「うーん。まぁマルテさんが全快したらそのうち現れるかな。」
そう言って少年はスプーンを置き、両手を汲んで祈りを捧げる。
「ごちそうさまでした。」
食べ終わった少女もそれに
「片付けておくから、キツネ達にご飯あげてきてくれる? ベーコン、そこにあるから。」
食器を片付けるアダムスに頷いて見せ、少女はキッチンに置かれたベーコンを持って外に出た。
精霊の森の中では、基本的に狩猟は禁じられているそうだ。そのため、こういう肉類はアダムスは外で買い付けてくる。
裏口を開けて外に出ると、
春とはいえ、まだまだ夜は冷える。深緑色のマントを抱き寄せ、少女はテントを目指した。
見上げた空には三日月がたゆたい、風に舞う木の葉が、星々の間を通り過ぎていく。
「キャン!」
と、少女の気配をいち早く察知した子ギツネがテントから躍り出て、歓喜の声を上げて跳ねまわった。
他の子ギツネと、最後に親ギツネがのっそりと出てくるのを見て、少女はしゃがんでベーコンを放り出す。
子ギツネたちが我先にとそれに群がり、引っ張り合って喧嘩する。その様子を、少女は微笑ましく思った。
親ギツネの怪我に、アダムスは治癒術を使わなかった。彼は、治癒術を乱用しない。あまり使いすぎると、被術者の自己回復力や再生力が落ちるからだ。それでも一週間もすれば、完治とはいかなくとも、怪我の具合はかなり良くなっていた。
彼らは少女によく懐いている。世話をしているのが少女だからというのもあるだろうが、顔が似ているからか、夜一緒に寝ているからか、それともその両方か。最近は、気付けばこのキツネの親子と一緒に過ごすことが多くなっていた。
テオの言葉を聞いてから、少女は毎晩、キツネたちと共に夜を過ごしていた。一人でいるのが不安で仕方ないからだ。
どうしても、頭から離れない。自分は「憎い」のかどうかをずっと考えているが、答えがでないのだ。少女は憎く思うべきなのだろうか。彼のように、あの熾烈で凄絶な感情を誰かにぶつけるべきなのか。自分をこんな姿にした人間を? もしくは、自分を
あんな事がなければ、今頃は両親と幼い弟と一緒に春を迎え、いつも通り過ごしていたのだろう。いつも通りあの故郷の山で、地味で素朴で平凡な、幸せな日常を送っていた。アダムスに会う事もなく、弓をつがえキツネを狩って、芋のポタージュばかりではない食事をして、両親や弟や、離れの村やそこに訪れる商人と楽しくお喋りをして、好きな歌を歌って過ごしていたのだろう――。
少女の胸の奥が熱く苦しく収縮し、ドス黒い何かが湧いてくる。
まるで、あの北の泉のように、黒いドロドロしたものが噴き出してくるようだ。
同時に、あの声が聞こえるような気がした。
顔が強張る。地面を落とした目の焦点がずれ、自然と歯を食いしばった。
ふと、足元をふわりとした感触が撫でる。
ふわふわとした毛並みを、後ろ足を引きずる親ギツネが擦りつけていた。顔を向ける彼女に向かって喉を鳴らし、寄り添うように身体を預けてくる。
きっと、少女の様子を心配したのだろう。親ギツネの心遣いに感謝してその身体を撫でていると、頭に軽い衝撃があった。
べたり、と何かが張り付いた感触。
あっ、と思った時には、
「ギャウッ!」
脳天に鋭い痛みが走り、少女は悲鳴を上げた。
ギャンギャンと騒ぐ声が耳に届き、アダムスは外へ飛び出した。
テントの近くで頭を抱える少女と、その周囲を走りながら吠え続けるキツネ達の姿を見つけ、
「何があったの!」
と大声を上げる。
駆け寄ると、少女が抱えた頭を恐る恐る上げ、涙を浮かべた金色の瞳で少年の白銀の瞳を見つめ返した。
突然、身体の調子がおかしくなったのかと思ったが、どうもそうではないらしい。だが、少女の頭頂部に小さな噛み跡を認め、少年は思わず息を止めてしまった。
アダムスの頭に、瞬時に熱い血が昇っていく。肩をわなわなと震わせ、少年は中空を見渡した。
「テオ! 君、この子を吸血したな!」
返事はない。だが、月光を受けるコウモリの姿を目の端に捉え、こら! と怒鳴りつける。
「ちょっと降りてこい! 彼女に謝れ!」
目くじらを立てる少年を無視して、コウモリは闇に紛れ、音もなくどこかへ消えてしまう。追おうとしたアダムスだが、はっと足を止め、少女の手を握って院内へ連れていった。
診察室に連れてきた少女の頭頂部を診る。コウモリだったためか傷跡は小さいが、くっきりと牙の跡が残り、血が滲んでいる。
アダムスは忌々しいといった様子で眉間に皺を寄せ、大きくため息を吐いた。
「まったく、あの吸血鬼には困ったものだよ。姿を見せないと思ったらこんな事して。」
手早く傷口を消毒し、薬を
「彼は吸血鬼だからね。食事として他の生き物の血を飲まなきゃいけないんだよ。でも、必要なら言ってくれれば手配したのに、勝手に君の血を吸うなんて……。」
机に肘をつき、手で額を支えてそうぼやいた。
「僕も、吸血鬼についてはそこまで詳しくはないんだ。彼らは本当に人前に出てこない。命を狙われてるから、絶対に自分たちの存在を秘匿するんだ。人外や魔族と呼ばれる中でも不明瞭な点が多くて、聞こえてくる話は御伽噺や伝承のような
頭のガーゼを気にしながら、少女はへぇ、と頷いた。彼女がまともに意識を取り戻してから初めての患者だったから、人外とはこういうものかと思っていたが、実は例外中の例外だったらしい。
「……ごめん、君に怪我をさせちゃって。僕の監督不行き届きだ。」
そう言って白いまつ毛を落とす少年の背中を、少女は優しく撫でる。その暖かさと肉球の柔らかさに少年は薄く笑い、少女に就寝を促す。
まだ辛そうな表情を浮かべる少年を何度も振り返りながら、少女は部屋を後にした。
診察室の扉を閉め、自室――いや、今夜もテントに向かおうと振り返る。と、待合室の中に見慣れぬ人影を認めた少女は、思わずビクリと身体を震わせた。
テオだ。一週間ぶりの人の姿に驚きつつ、ついしげしげと見つめてしまう。
彼は、壁に飾った絵を見ているようだった。
先日埋葬した、旅人の男が描いた絵だ。
「ここの人間は、優しかった――。」
かすかに呟く声が、少女の耳に届いた。まさか、彼からそんな言葉が出ると思わなくて、少女は思わず息を呑む。
瞬間、勢いよくテオが振り返る。大きく見開いた紫色の瞳が少女を見たが、すぐに顔をしかめ、マルテのいる遮光部屋へ入っていった。
バァン! と大きな音を立て勢いよく扉を閉める。後には、茫然と突っ立ったままの少女が残されただけだった。
彼は、あの街に行ったことがあるのだろうか。気にはなったが、少女は声が出せないし、喋れたとしてもテオは会話に応じてくれそうにないと思った。
だが、やはり意外だった。あんなに人間が憎いと言っていた彼が、そんな事を言い出すなんて、思いもしなかったのだ。
少女は、その夜もキツネ達と共にテントで眠った。
だが、前日までよりも少しだけ、心が楽になった気がした。
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