命題3.吸血鬼 テオ 2
聖水を汲みに行ったはいいが、初めてアダムスと歩いた時に不安に思った通り、何度か道順を間違えそうになった。
そんな時は、光の玉として視認できる精霊たちが
だが、そうして少女がヘマをする度に、頭に張り付いた栗色のコウモリが「キキッ」と笑うのだ。
少々鬱陶しいと思いつつ、その存在にはあっという間に慣れてしまって、頭に張り付くコウモリの存在が自然になっていった。
水瓶いっぱいにするには水桶二杯分では足りなかったため、結局、湖まで二往復しなければならない。
少女が治療院まで戻ってくると、玄関の前で明るい茶褐色の何かが動いている。
近付いてみると、向こうもこちらに気付いたようだ。「コーン!」と軽やかな声が飛んできた。
キツネだ。しかも、親子だ。
玄関扉を引っ掻く子ギツネが三頭、親ギツネは地面に横になり、頭を上げてこちらに向けている。後ろ足の太ももと臀部の辺りに一本ずつ矢が刺さっているようだ。
水桶をその場に置いて、キツネたちに駆け寄って様子を見る。しゃがみこんで手を伸ばすと、子ギツネたちがわらわらと飛びついてきた。怪我をしているのは親ギツネだけで、傷口から血が流れているものの、大怪我ではないようだ。元気な様子からしても、子どもたちにもこれといった異常は見当たらない。
人外専門というから、テオのような明らかに人間じゃないような者ばかり来ると思っていたが、こんな普通のキツネも来るのだな、と少女は感心した。
ずっと少女の頭に張り付いていたコウモリが飛び立ち、子ギツネ達を威嚇する。「シャーッ」と自分たちより一回りも二回りも小さなコウモリに牙を剝かれた子ギツネたちは、異常なほど震えだし、横たわる親ギツネの後ろに隠れてしまった。
なんというか、先ほどから
丁度良い時間なのでアダムスを起こし、親ギツネの怪我を診てもらおう。玄関を潜り、彼の部屋へと歩を進めた。
この時、あのコウモリはついてこなかった。
* * * * * *
「何事かと思ったけど、普通の矢だね。外の動物もそう簡単に精霊の森には入れないはずだけど、迷い込んじゃったのかな?」
まだ眠たそうなアダムスが、地面に横たわる親ギツネを覗きながら首を傾げた。
申し訳なさそうに耳を垂れる親ギツネに、「ごめんごめん」と言いながら、少年はにっこりと笑う。
「これも何かの縁だし、ちゃんと治してあげるから安心して? 怪我したままじゃ子供たちを育てるのも大変だもんね。完治するまで、ここにいていいよ。」
そう言うや否や、親ギツネは顔を上げてしっぽを振り、子ギツネたちが喜び跳ねまわった。その様子を見て、少女はつい顔を綻ばせる。
少女も、故郷にいた頃は弓をつがえ獣を狩っていた。キツネも射たことがあり、たまに村に来る商人に毛皮を買ってもらったものだ。キツネの肉は美味しいとは言えないが、奪った命を粗末にしてはいけない、という父の教えから、残さず頂いていた。
それはそれで生活のためだったし後悔はしていないが、今は今で、こうして親子が共にいる光景には心が
「あれ?」
と、親ギツネの身体を診ていたアダムスが声を上げる。
「もしかして、君の頭ってキツネかな? ほら、顔や頭の形がそっくりだよ!」
キツネたちの頭と
「肉食獣だとは思ってたけど、キツネだったんだね。良かった、また一つ君の身体のことがわかったね!」
金色の瞳を丸くする少女の鼻先を撫でながら、アダムスは笑った。
両手で頬を挟みながら、少女は親ギツネの頭を見やる。お互いキョトンとした顔で見つめ合っていた。が、暫くすると少女の口角がみるみる吊り上がっていった。
実は、少女はキツネが好きなのだ。
あのツンと尖った鼻先と耳、そしてふっくらとした毛並みが好きだ。
一度だけ、真っ白なキツネを見たことがある。神秘的すぎてキツネの姿をした別の何かなのではないか、と思ったものだ。
そう、あの白いキツネは、とても美しかった。
世界で一番美しい動物は、と聞かれたら、キツネと答えるだろう。
今まで自分を顔を見てそうだと気付かなかったのは、一重に怪我がひどすぎて、とてもキツネには見えなかったからだ。
アダムスの笑顔に励まされつつ前向きを意識していた少女だが、あまりに人間の頃とはかけ離れた姿になったため、やはり心が苦しくなることもあった。だが、女の子として一番気にしていた顔の部分が、世界で一番美しいと感じるキツネのそれだと言うのなら、希望が湧いてくる。
「彼らを中に入れるわけにはいかないし、またテントを張ろうか。悪いけど、物置から一番小さいやつを持ってきてくれる?」
アダムスの指示にこくりと頷き、少女は裏口近くの物置へと向かった。
キツネの顔だという事実が嬉しくて、まだまだ顔が緩むのを抑えきれない。つい、鼻歌を歌ってしまいそうだ。だが、やはり声が喉で「グッ」と突っかかる。
それも今は些細なことだと、るんるんと身体を揺らしながら物置を扉を開ける。
その瞬間、今までどこにいたのか、あの栗色のコウモリが扉の隙間から物置へ入り込んでしまった。
めんどうな事になった、と少女は眉をひそめた。楽しい気分が台無しだ。そのまま閉じ込めるわけにもいかないし、出ていくまで扉を開け放しておくわけにもいかない。テントより先にコウモリを追い出そうと一歩中へ入り、ピタリと動きを止める。
入り口から差し込む光のその先、切り取られたように真っ暗闇の中に、誰かがいた。
「お前……」
テオの声だ。少女の背筋に緊張が走った。
姿が見えないと思っていたが、まさかずっと中にいたのだろうか。
いや、そんなはずはない。先ほどまでは絶対にいなかった。彼は突然ここに現れた。
「お前、人間だろ? 俺にはわかるぞ、そんな身体でも元は人間だ。魂が人間だ。俺たち吸血鬼はそういうことに敏感だからな。」
冷たい声が少女を襲う。ゴクリと喉を鳴らす以外、指一本動かせなくなった。
「でもその身体、たくさん混じってるよな? 自然にそうなるなんてあり得ない。誰かにやられたんだろ。しかも、そんな身体、
闇に浮かぶ紫眼が、少女を射抜く。
「俺は憎いぞ。人間が憎い。あいつら、俺たち吸血鬼を金儲けのために狩りやがる……ハイエナのようにどこまでも追ってくるんだ。捕まった吸血鬼がどうなるか知ってるか? 解体されるんだよ、生きたままな。まず目を抉って、爪を剥いで、牙を一本一本抜いてって、舌を切って髪を削いで! 手足を切り落として血を抜いて! 生きたまま胸を切り開いて心臓を取り出して! 死体になっても骨を全部取り除いて! 残った肉は焼いて灰にして! それぜーんぶ素材だ! 高値がつくからってこぞって俺たち同胞を襲ってくる! せめて最初に心臓を抜くならまだいいさ。だがなんでこんな苦痛ばかり与えるような方法をとると思う? 楽しんでるんだよ俺たちが泣き叫ぶのを! 吸血鬼の女はもっと酷い目にあうぞ、生命力が強い分なかなか死なないからってな!」
少女から血の気が引いた。頭の頂点から、さーっと冷たく熱が引いてゆく。全身に鳥肌が立ち、震えが止まらない。
彼の話が本当なら、彼の言う人間たちは、少なくとも少女が知る限りの
そして、この話は恐らく本当だ。テオの怒りは、とても嘘や演技で片づけられるものではない、本物の気迫があった。少女がそれに当てられ、動けなくなるまでに凄絶な情動だった。
「その上、マルテにあんな事を! 俺はあいつらを許さない。人間を許さない。絶対に許さない――」
身をかがめ、両手で顔を覆いながら吸血鬼は
空気が重い。少女は、ここまで強い感情を放つ人と初めて対面した。できれば今すぐここから逃げ出したい。だが、足がすくんで一歩も動けなかった。
あまりの重圧に、呼吸が浅く、早くなっていく。冷や汗が、まばらな毛の間を流れ落ちた。
許さない許さないと呟く声が止み、テオが顔を上げる。片手で顔を覆ったまま、もう片方が少女を指さした。
「お前は、どうなんだ?」
心臓が、ドクンと跳ねる。
「憎くないのか? お前の身体をそんな風にした奴のこと。いるんだろ? 犯人が。そんな外道を働いた悪党が。憎くないわけないよな?」
テオが言葉を紡ぐたび、真綿で首を絞められているように、どんどん息苦しくなっていく。闇に浮かんだ、妖しく光る紫色の瞳から目を逸らしたいのに、どうしても動く事ができない。
そのうち、少女にはあのたくさんの声が聞こえてきた。
あの北の泉の、あの黒い塊の、あの子供のようなたくさんの声が。
つい最近まで聞こえていたあの声が、突如消えたあの声が、また少女の耳に届いていた。
テオが突き出した腕が、指さす白い手が、まるで手招きしているように見えてくる。
――こっちへおいで
――こっちなら、もういたくないよ
――みんなもいるよ
――さびしくないよ
――おいでよ、おいでよ
「憎いだろ、お前も。」
――きみはこっちがわだよ
「どうしたの?」
少年の優しい声が、少女を正気に戻した。
どさりと膝から崩れ落ちる
「大丈夫!? 遅いから何かあったのかと心配で……あ、テオ!」
アダムスの横を、栗色のコウモリが飛び抜いていく。
「あいつ、また何かひどいこと言ったんだな! 大人しいと思ったらこんなところに……吸血鬼って日光の
少女の背中をさすりながら、
だが、肩で荒い呼吸を繰り返す少女に向き直り、心配そうに顔を覗いて、
「ねぇ、本当に大丈夫?」
少年の問いに、少女は力なく頷いた。
「顔色が悪いよ。」
首を横に振りながら、少女は立ち上がる。もうあの声も聞こえない。
大丈夫だ、と少年に微笑んでみせた。
「……テオのこと、引っぱたいてこようか?」
苦笑して、首を横に振る。
「本当に?」
穏やかに頷いて、テントを持ち、物置を後にする。
そんな少女の背中に、アダムスはまだ不安の残る顔で声を掛けた。
「何かあったら教えてね。僕、頼りないかもしれないけど、力になるから。」
暖かい少年の言葉が、少女の強張る身体を完全にほぐしていった。
大きく息を吐いたあと、振り返って笑って見せる。その顔を見た少年は、微笑みながら彼女の横に並び、一緒にキツネ達の所へと戻ったのだった。
* * * * * *
その夜、少女は不安で眠れなかった。
そわそわして、落ち着かなかった。
昼間のあの声がまた聞こえるんじゃないだろうかと思うと、なんだか怖くて、父母や弟の温もりが欲しくなった。
そっと部屋を抜け、外に張ったキツネたちのテントに入る。起こしてしまったようで、四頭とも揃ってもぞもぞと動いていた。
だが、静かに入ってくる客人をキツネ達は受け入れ、丸まる少女に寄り添うようにして、彼らもまた眠りについた。
声の不安は和らいだが、テオの言葉は心から消えなかった。
――憎いだろ、お前も。
わからない。考えたこともない。
苦しすぎて、当時はそんな余裕すらなかったと思う。
では、今ならどうだろう?
少し考えたが、やはりわからなかった。
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