命題1.弟子 エドアルド・ダールマン 4

 森を走る師弟の間に、会話は無かった。


 エドアルドは顔を上げ、巨大樹の位置を確認した。思った以上に距離が開いている。そして、先ほどと比べて空全体が灰色がかっているように見えた。

 顔を撫でる空気が冷たい。花畑にいた時は、甘い香りと共に穏やかな風が吹いていた。だが今エドアルドが感じているのは、流れる汗を急激に冷やすような冷気だ。

 森の様子も違っている気がする。精霊の姿が無い。鳥や虫の声も聞こえない。カサカサという妙に乾いた葉音しかない。静かだ。

 新緑の色彩が徐々に薄まり、周囲から生命力が無くなっていく。

 まるで、北に進むにつれて冬へと逆戻りしているかのようだった。


「先生、ここは――」

「この先に、この森が抱える厄介事がある。気を付けて、危険を感じたらすぐ逃げて。いいね。」

「……わかりました。」


 少年の真剣な声に、エドアルドは頷いた。

 木々から葉が落ち、枯れ枝が目立つようになってきた。走る地面が干乾び、ひび割れていく。寒々しい景色への変化と共にどんどん吐く息が白くなった。


 この先に、“良くないもの”がある。


 北へ向かい始めた時に感じた悪寒はこれだったのか、とエドアルドは納得した。

 間もなく森を抜けると、そこには大きな泉があった。

 辿り着いた瞬間、エドアルドは腹の底からこみ上げる吐き気に襲われた。

 泉の中心で、黒いドロドロとしたものが弱い噴水のように溢れ出していた。その光景に、エドアルドの中の本能的な恐怖が激しく暴れだし、この場所から逃げようと身体を震わせる。

 咄嗟に口元を抑え、膝をついた。アダムスはその様子を横目に見つつも、泉の中心を睨みつける。


「あれが、この森が抱える厄介事――多分、呪いだ。」

「の、呪い……ですか。確かに、呪いは自然の流れに反するもの。あんなに強力なら、で周囲に悪影響を及ぼすでしょう。」


 えづきを抑えながらエドアルドは顔を上げた。


「ですがここは精霊の森。世界中で最も清らかな場所に、なぜ?」

「わからない。」


 アダムスは首を振った。


「あれを取り除き、精霊の森を守る事が、僕に出された条件だ。」

「あれを……ですか。」


 息を整え、ゆっくりと立ち上がる。エドアルドの中の恐怖が消え去ったわけではないが、今はそれどころではない。

 あの大きな獣――合成獣キメラとなってしまった少女は、こちらの方角にいる。早くその子を探さなくてはならない。

 不快感に耐えながら周囲を見回す。「あっ」と声を上げたのは、アダムスの方だった。

 泉の反対側に、地面に座り込む獣の姿があった。


 泉の外周に沿って、二人は静かに進んだ。

 近づくにつれ、合成獣キメラの少女の全貌が明らかになっていく。その姿にエドアルドは心を痛めていった。

 包帯がぐるぐると巻かれた、肉食獣のような頭部と前脚。老犬のように力なくお座りをした後ろ脚には蹄が見て取れた。手足の全てに、大きな枷と太い鎖が着けられている。

 肋骨が浮き出るほどガリガリにやせ細り、所々に血の滲んだ湿布が貼られた臀部でんぶからは、ねずみのような細長いしっぽが五本伸びていた

 何より目を見張ったのは、首と腹を横に貫通する二本の鉄の棒だった。合成獣キメラの研究について知識のあるエドアルドは、それが少女の肉体をかろうじて繋ぎとめる役割を果たしている事に思い至る。手足の枷も同様だ。痛々しい様相なのに、そのどれもが取り除く事を許さない。


 少女はぼうっと泉を見つめていた。中央の、あの黒いドロドロを見ているようだ。近づく自分たちに気づく様子もない。


「やぁ、探したよ。」


 アダムスが穏やかに声をかける。


「ここ寒いね。さ、部屋に戻ろう。」


 一歩一歩、静かに近づいていく。その様子を、エドアルドは静かに見守った。

 少女は反応を示さない。

 座り込んだ少女は、それでも少年の身長近い大きさだった。

 アダムスがすぐ側に立ち、


「ねぇ、」


 と、手を触れようとした。その時、


「ギャァァアアアア――――!」


 まるでたった今意識を取り戻したかのように少女が暴れだした。

 腕を振り上げ、アダムスから距離を取る。潰れた声で吠えながら二人を威嚇した。

 二本足で立ち上がった少女は、成人男性の大きさを優に超えていた。そしてその腹には、治りかけの拷問の跡が見て取れた。

 エドアルドの頭に、合成獣キメラの研究資料の一文がよぎった。被験者の死亡は前提。故に生きている間に、肉体の耐久実験をして崩壊速度を計る――。

 不快な情報を頭を振って消し飛ばす。


 先生、と駆け寄ろうとすると、アダムスに後ろ手で制された。

 少女が頭を抱え、身体を振って暴れる度に、両手足の枷から伸びる鎖がじゃらじゃらと音を立てている。

 混乱しているようだ。無理もない。合成獣キメラの被験者になってしまった事で、一生かかっても消化しきれるかわからない程の恐怖と苦痛を受けた――いや、今も受け続けているのだろう。

 アダムスは、そんな彼女に向って、また一歩一歩近づいていった。


「さっきはごめんね。今日はお客さんが来たんだ。君は、ここに来てから僕以外の人と会うのは初めてだったから、びっくりしちゃったね。」


 少年が一歩足を進める度に、少女が一歩後ずさる。


「あの人は怖くないよ。顔はちょっと怖いかもしれないけど、すっごく優しいんだ。僕と同じ治癒術師でね。君の事を一緒に探してくれたし、君の事もすごく心配してた。」


 アダムスの言葉に、エドアルドは居たたまれず視線を落とした。

 少女は両腕を振り回して拒絶している。グェ、ギャア、と漏れる声に鎖の擦れる音が混じる。


「大丈夫、落ち着いて。さ、一緒に帰ろう。」


 前に出るアダムスに向かって、ひときわ大きく少女が荒れ狂った。

 合成獣キメラの肉食獣の爪が大きく振りかぶられる。



「先生!」


 エドアルドの叫びと同時に、巨大な鉤爪が少年に振り下ろされた。


 ぶしゃり


 アダムスの首から、真っ赤な血が噴き出した。

 大量の血は少女にかかり、一瞬で頭を赤く染める。

 少女が絶叫した。


「アアァァァァアアアアア――――――!」


 アダムスの身体がゆっくりと傾き、どさりと音を立てて横たわる。そのまま、ピクリとも動かなくなった。

 純白の治癒術師の衣服に、真っ赤な血が瞬く間に広がっていく。


「せ、先生……アダムス先生!」


 駆け向かおうとしたエドアルドの目の端に、きらりと光るものが映った。

 反射的にそちらへ向かう。アダムスが首から提げていた小さな白いランプが転がっていた。彼の本体だ。恐らく、鉤爪に引っ掛かって飛んで行ったのだろう。

 即座に手に取り、傷が無いか確認する。アダムスは魔法生物だ。肉体を破壊されても命に別状はないが、このランプを破壊されればたちまち死んでしまう。


 傷一つ無い事にほんの少し肩の力を抜いて、アダムスのの方に向き直る。

 近づいて首の怪我を確認する。真っ白だった衣服と肌は、どこもかしこも真っ赤に染まっている。その中で少年の細い首が赤黒い口をぱっくりと開き、血液を垂れ流していた。致命傷だ。普通なら即死、実際に呼吸も止まっている。だが、アダムスの白銀の瞳は未だかすかに揺れて、エドアルドを捉えていた。


「少し待ってください。今、治癒術をかけます。」


 アダムスの身体を横向きにし、術中に血が器官に入らないよう、患者にとって楽な体勢をつくる。

 そのまま傷口に手をかざし、エドアルドは全力で治癒術を行使した。


 治癒術は、術者の魔力を回復力として変換し、被術者に送り込む事で急速な身体の回復を実現させる技だ。

 その工程から、治癒術は術者への負担が極端に大きい。実質、生命力を送り込んでいるようなものなのだ。

 故に、治癒術の乱用は被術者自身の回復力を落とす可能性をはらむだけでなく、治癒術師自身の生命をも危険に晒す。

 ましてや今回のような致命傷を治すなど、並の治癒術者であれば無謀に等しい。


 だが、エドアルド・ダールマンは熟練の治癒術師であり、世界的にも高名な治癒術師であり、何よりアダムスの弟子である。


 五十代に差し掛かろうというこの初老の治癒術師は、絶妙な力加減で傷口を修復させた。自身の意識が途切れないよう、そして、被術者であるアダムスにも負担がかからないように細心の注意を払う。

 冷や汗が頬を伝い、顔がみるみるうちに青ざめていく。それでもエドアルドは目の前の患者に集中した。


 暫くの後――ものの数分で、アダムスの首の致命傷は綺麗に塞がった。ごほごほと咳き込み、器官に残った血を吐きだす。エドアルドに顔を向ける少年の顔面は、蒼白を通り越して死人のように真っ白だ。傷口が治ったとはいえ、流した血液までは補填しきれてはいない。

 エドアルドはさすが実力者なだけあり、これだけの治癒術を行使してなお意識を保っていた。だが、ひゅーひゅーとか細い呼吸を繰り返し、今にも倒れそうな様相である。暫くは動くのもままならないだろう。

 それでも彼は少年の袖を掴み、握りしめていた小さなランプを見せた。


「ランプは……無事です……!」


 その姿に、アダムスは苦笑した。

 健気な弟子の肩をぽんぽんと叩き、自分は少女の方に向き直る。

 少女は、一本の枯れ木にしがみついて泣いていた。時折、ばりばりと爪を立て、苦しそうに木の幹を掻きむしっている。


 エドアルドは、少女のあまりの不憫さに胸が詰まる思いだった。

 先ほどの件は事故である。ちょっと、いやかなり疲れはしたが、死者はいない。怪我人も、結果としていない。問題ない。それでも少女の気持ちをおもんばかると、やるせない気持ちになった。

 少女は決して、アダムスを傷付けようとしたわけではないだろう。ただ、きっと彼女の中で渦巻く色々なものが抑えきれずに慣れない身体を動かしていたら、爪がアダムスの首に当たっただけなのだ。

 それでも自身を気にかけていた存在を傷付けた事は、少女にとってあまりに衝撃にすぎる。

 ただでさえ、これ以上ないほどの絶望を味わっただろうに。そう思わずにはいられなかった。


 そんな痛ましい姿を晒す少女に、少年はまた、ゆっくりと近付いていく。

 それに気付いた少女は怯えるように少年を見上げ、木の影に隠れようと身じろぎする。じゃら、と動きに合わせて鎖が揺れた。


「大丈夫?」


 少女の大きな身体が、びくりと震える。


「僕は大丈夫だよ。この程度じゃ死なないからね。」


 近付く少年に対して、少女は追い払うように腕を振った。その弱々しい動きを抑えるように、アダムスは近付いていく。


「ね、一緒に帰ろう?」


 少女の肩に、優しく手が置かれた。

 一拍置いて、少女の頭がゆっくりと少年の方を向く。

 少女の両目から、大粒の涙が零れ落ちた。

 次から次へと流れる涙に呼応して、肉食獣の口から、吠えるような鳴き声が漏れる。

 灰色の空に向かって叫び続ける少女の頭を、少年は優しく抱きしめ、ゆっくりと背中を撫でる。


 その光景を目の当たりにして、エドアルドは下唇を噛んで涙を堪えた。


 少女を生かすべきではなかったと断言し、少年の行動は非人道的だと罵った。

 二人への畏敬の念と共に抱いた、自分への羞恥と情けなさ如きで、涙を流して良いはずがなかった。



(先生は、この十二年と八カ月の間も、何一つ変わっておりませんね――。)


 エドアルドがアダムスと初めて出会ったのは、まだ彼が幼い子供だった頃だ。彼の治癒術師としての手腕と信念に惚れ込み、無理やり彼の旅に同行して治癒術師となった。

 長い長い付き合いの、敬愛する先生である。

 久々の手紙――治療院を開業するという知らせを受けて、帝国での仕事を放り出して駆け付けた。

 そこまで慕う彼と、十二年と八カ月も会わなかったのは理由があった。


 エドアルドがエクセリシア帝国に腰を据え始めた頃。一人旅を続けていたアダムスは、疫病が蔓延する地へと足を運んだ。

 そして助けてと叫ぶ人たちを救えず、矛盾と葛藤からとうとう心が壊れ、本体まで半壊したのだと、彼の同胞――同じマスターに仕える他のランプたちから、エドアルドは聞いていた。

 その修理に十年の歳月が費やされ、最近になってやっと目覚めたのが、この“白日はくじつの治癒術師”という作品名の魔法生物――ランプである。


 苦しむ全ての者を助けたい。だが一人の治癒術師が背負える負荷の限界、そして物理的、精神的な限界からも、それは実現不可能な夢物語である。

 治癒術師は誰しもその葛藤にぶつかり、折り合いをつける。端的に言うと諦める――患者を切り捨てる一線を定めるのだ。

 だが、“白日はくじつの治癒術師”はそれを良しとしなかった。

 目的を持って造られた魔法生物である以上、従順な生き方なのかもしれない。だがそれは、マスターから自由を与えられている彼には関係の無い事のはずなのだ。本人が望めば、まったく違う生き方だって選ぶことができる。

 だが“白日はくじつの治癒術師”は、百年以上の月日を誰かを救い続ける事に費やし、一度壊れかけてもなお合成獣キメラの少女を救おうとしている。


 エドアルドは、手の上で淡く光る白い小さなランプに目を落とした。

 暖かい光だ。

 その光を胸に抱きしめ、彼は少年と少女に向かって、深く、深くこうべを垂れた。

 それは、日が沈み始める頃。少女が落ち着きを取り戻し、少年が彼の肩に手を置いて「帰ろう。」と声をかけるまで続いた。

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