第97話 俺は殴る

優希ゆうき……。美優みゆ……」


 目の前に立っている二人の人物の名を、俺は呟いた。

 そうして、すぐに二人から目を背けた。


隼太はやた……」


 美優が、俺を裏切った最低な女が、俺の名前を呟く。

 夢かもしれない、と思った。

 生温い風が俺の頬を撫でる。

 そうして、今の状況が夢ではないと悟った。

 ああ、なんだってんだよ。

 俺は……。


「……………………」


 無言のまま、俺は二人に背を向けた。

 そうして、夜道の中を一歩踏み出した。


「待ってよ、隼太!」


 この場を去ろうとする俺を、美優が呼び止めた。

 俺は構わず歩き続ける。


「待って!!」


 美優が後ろから俺の右肩を掴んだ。

 肩に触れた彼女の右手を、俺は手のひらでぎ払う。


「いっ……!」


 チラリと美優に目を向けると、彼女は悲痛な表情を浮かべながら、右手を左手で押さえていた。


「帰るのか、隼太‼」


 次に聞こえてくるのは、優希の声。


「……………………」


 俺は何も答えない。


「隼太……!」


 喉から必死に絞り出したような声で、美優が呟く。


「ごめん……」


 後ろから、彼女のそんな声が聞こえた。

 ごめん……だと?

 今、美優はそう言ったのか?

 俺に、謝ったのか?

 俺は拳を強く握り締める。


「……っざけんな」


 その時、俺の中の何かがキレた。

 俺は振り返り、目の前にいる元カノを睨んだ。


「ふっっっっっざけんなよ!! てめぇえええええええええええええ!!」


 自分でも驚くくらいの声でそう叫び、俺は彼女に殴りかかろうとする。

 しかし――、


「早まるな!!」


 優希が、すんでのところで俺の拳を掴んだ。

 俺はギロリと優希を睨みつける。


「やっぱり、まだ根に持ってたか」

「まだ……根に持ってた?」


 ……ふざけたことを。

 一生忘れるわけねえだろ。


「だが、美優を殴るのはお門違いだろ?」


 諭すように、優希は言った。


「悪いのは、俺だ」


 そうだ。その通りだよ。

 悪いのはてめえだ。

 俺は、美優が好きだ。

 それを、お前が奪った。

 相談の一つもせずに。何の前触れもなく、てめえが奪った。


「――殴るなら、俺を殴れよ」


 彼がそう言った直後。

 俺は、何の躊躇いもなく、優希を殴った。

 ヤツの顔面を、思いっ切り殴った。


「ぐぁ……!」


 情けない声を出して、優希は倒れた。

 仰向けになって倒れた優希の上に、俺は馬乗りになる。

 そうして、俺は右手拳を高く突き上げ、それを振り下ろそうとする。


「やめて! 隼太‼」


 美優の声が聞こえ、一瞬俺の動きが止まる。


「口出しするな! 美優‼」


 叫んだのは、俺ではなく優希だ。

 優希は俺の顔を見て、不敵に笑う。


「さあ、殴れよ隼太。それがお前の、望みなんだろ?」

「ああ。美優を許しても、お前だけは許さねえ」


 そう告げて、俺は右手拳を彼の顔に叩き込んだ。

 左。右。左。右。

 交互に拳を振り下ろし、顔を殴る。

 やがて優希の唇が切れて、口元から血が流れだす。


「暴力は……」


 優希が、懐かしい言葉を口にする。


「良くない……。そうは、思わないか?」

「思うよ。だけど、例外もある」


 突然、こんな場所に呼び出されて。

 訳も分からず、待たされて。

 誰が来るのかと思ったら、俺の目の前に現れたのは、顔も見たくない相手だった。

 最悪だよ。

 美優はまだいい。

 でも、てめえはダメだ。優希。


「はは、俺が……例外かよ」


 消え入りそうな声で、彼は呟く。


「どの面下げて……」


 尚も彼に拳を振るい続けながら、俺は叫ぶ。


「どの面下げて俺に顔見せに来やがった、てめえ!!」


 殴る。まだ殴る。

 もう、元の顔に戻れなくなってしまうくらい、一生分の恨みを込めて、殴る。


「隼太……もうやめてよ……」


 美優の声が聞こえる。

 少しだけ、昔のことを思い出す。


『私たち、ずっとこのままならいいね』


 君と一緒に海へ行った日、俺も、君とずっと恋人同時ならいいなって思っていた。


『ごめんね、隼太君』


 俺は、今でも君のことが忘れられないくらい、好きなのに……。

 中学の頃の美優を思い出しながら、俺は優希の顔を見る。


『お前も野球やるか?』


 幼い頃、お前にそう声をかけられて、嬉しかったのに。


『何があっても、俺と隼太、そして美優は、友達だからな』


 お前の言葉を、親友として信じていたのに。


『俺と美優は、付き合うことになったんだ』


 親友から告げられたその言葉は、どうしようもなく俺を傷つけた。


「う……く……」


 気づけば、俺は泣いていた。

 昔のことを思い出しながら、泣いていた。


「親友じゃ……なかったのかよ……」


 優希を殴る手は、いつの間にか止まっていた。


「隼太……」


 泣きじゃくる俺を見て、優希が呟く。


「大丈夫? 隼太?」


 美優が近寄ってきて、俺の背中をさすった。

 彼女はハンカチを取り出して、俺の涙を拭いた。


「なんで……今更現れた……?」

「それは……」

「どうして、俺に優しくする?」


 涙をこらえながら、俺は告げる。


「意味が、わからない……」


 本当に、わからない。

 俺を裏切ったお前らが。

 俺を追い込んだお前らが。

 どうして今更、俺の人生に介入してくるんだよ?


「それを……」


 優希は口から流れる血を拭いつつ、告げる。


「――お前に説明しに来たんだよ、隼太」


 俺が優希の上から体をどけると、彼はその場に座り込んだ。


「俺の声なんて聞きたくもねえと思うが、どうか聞いて欲しい、隼太」


 俺は彼の言葉を肯定も否定もせずに、無言を貫いた。

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