顔が消えた日

火ノ島_翔

顔が消えた日

 ※この物語はフィックションではありません。



 ある日、世界中のすべての人間から顔が消えた。




 ――――キーンコーンカーンコーン


 本日最後の授業を知らせる鐘の音とともに茶洛高校3年2組、谷出泉タニイデズミ 恵利エリは鞄に教科書を詰め込む。


 受験を控えた早秋、程よい気候であり、行楽を楽しむに最適な空のもと彼女は塾へと向かう。日中は学校で授業。放課後から夜10時まで塾でテスト対策勉強、帰ってすぐに塾と学校から出た課題を終わらせると、時刻は既に深夜2時。


 明日の朝は6時から特別講義の受験対策勉強会がある。


「はぁ~、何やってんだろうなぁ」


 恵利は自室の机に突っ伏して、ため息を吐く。田舎の祖母には溜め息をつくと幸せが逃げるよ、と言われたのを思い出すが、ついついため息が出てしまう。


「はぁ~……もう、寝よ……」


 宿題も終わらせ深夜2時30分。過酷な日々の中で唯一の癒やしである夢の世界へと沈みこんだ。


 翌朝、いつもより調子がいい。睡眠時間は3時間ちょっとだが、睡眠の質が良かったのだろう。目の下の隈はそれなりだ。少しだけ足取り軽く、歩道橋を登り、そして降りようとしたとき、下の交差点でトラックが歩道橋の柱に突っ込んだ。


 歩道橋は激しく揺れ、その衝撃で恵利は足を踏み外し、階段を転がり落ちていく。


 ガツンガツンと体に伝わる衝撃を感じながらも、受け身を取らなくてはと思い丸くなる。だが、最後に大きく弾んだ体は中を舞い、歩道橋の最下部に設置してあるU字自転車止めに勢いよく後頭部をぶつけた。


 一瞬の世界の閃光とともに口の中に嫌な味が広がる。そして恵利は目を開けることなく意識を失った。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


「うぅ……ん、イテテテ」


 目が覚めると病院のベッドの上に居た。頭には包帯が巻かれ、病院の患者が着るような白い服を着ている。上半身を起こし、後頭部に手をやるとガーゼがあるようで少し盛り上がっている。


 ――ズキンッ


「イッ!痛っ!」


 刺すような痛みと鈍い痛みが同時に来たためつい声を出してしまった。もう触らないようにしようと思った恵利であった。

 

 そこへ声を聞きつけた看護婦さんがやってきて、お医者さんを呼んでくれた。


 お医者さんの話によると一週間近く意識を失っていたようだ。


 未だ意識ははっきりしないが、彼らの方を見ずに返事だけはする。


「ハイ……ハイ……(勉強大丈夫かなぁ)」


 恵利の心配は1週間分の宿題と授業に追いつけるかどうかであった。


 そこに連絡を受けた母が駆けつける。聞けば、ずっと父と母の交代で恵利に付き添っていたようで、先程は偶然にもお見舞いに着ていた親戚の見送りのために席を離れていたのだった。


「恵利、恵利!大丈夫?母さんが分かる?」


 ぼんやりと壁を見つめる私を心配して母さんが私の手を撫でる。


「えぇ、全然大丈夫よ、少し頭は痛くて……まだフラフラするけど、母さんを忘れるわけが……えっ!!」


 恵利は話しながら母親の顔を見て言葉を失った。


「恵利?どうしたの?頭痛いの?本当に大丈夫?」


 恵利の言葉が途中で止まり、驚愕の顔をしていることに違和感を覚えた母親は聞く。


「お……おかあさ……ん。どう……して……」


 恵利は母親の顔を凝視しながら絞り出すように声を出す。


「どうして……顔が無いの?」


 その発言は恵利にとって正直で純粋な疑問であったが。医者や看護婦を含めた周囲の者を驚愕させるには十分な発言であった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 直ぐに最精密検査が行われた。少しはっきりとしてきた意識の中で恵利は、関わる医療関係者の顔を確認した。


「(無い……みんな、顔が無い!?)」


 十人ほどの人間の顔を見たが、そこには顔がないのだ。服装や体格、喋り方などから男性か女性か、医者なのか技師なのかは分かったが、皆一様に顔がない。恵利にとってそれは驚きよりも恐怖であった。


「これは、まさか今流行りの異世界転生!?(いやいや何を言っているんだ私は)」


 ここが異世界であるより、頭を打っておかしくなってしまった可能性のほうが高いだろう。


 恐怖と驚きの連続で感覚が麻痺しているのか、脳が処理をしきれていない現状を混乱というのであろう。幸いなことに恵利の混乱状態は暴れたり恐慌したりすることはなく、ただボーッとするだけであった。


「恵利さんは、『後天性相貌失認こうてんせいそうぼうしつにん』である可能性が高いです」


 様々な機械での検査とテストを受けた結果を見て、医者はそう告げた。


「別名『失顔症しつがんしょう』とも呼ばれていまして、人間の顔を顔として認識できないという症状があります。本来人間の顔というものは、目、鼻、口、眉、それから細かな筋肉の動きなどを総合して脳が顔である。と処理するのですが、恵利さんの場合、それぞれの部分的には認識可能ですが統合して顔と認識する部分に何らかの可能性がありますね。」


 たしかに医者の言うように、恵利が顔を見ても、そこに顔はなく感じる。だが、口が大きい人だな、歯がきれいだななど部分的には分かるのだ。ただ顔として認識できない。今までぱっと見るだけでその人を印象づけていた最大のものが認識できない。


 恵利にとって世界の普遍的な常識が崩壊したような衝撃であり、ようやくことの重大さが身にしみてきた。


 横でうなだれる娘を抱きながら父親は医者に質問する。


「なにかしら元に戻す方法は無いのでしょうか?」


 母からの連絡で仕事中にも関わらず、スーツ姿で病院に駆けつけてきた父の暖かさを感じながら、恵利は俯きながらも医者の言葉を待つ。


「恐らく原因としては先日の事故で後頭部に強い衝撃を受けたことによる脳障害でしょう。現段階では元に戻るかどうかは……はっきりと述べることは出来ません。ですが、時間の経過でもとに戻る場合や、親しい人の顔は認識できるようになるなど、様々なパターンが考えられます。今いちばん大事なのは、気負いすぎず、できるだけ今までと同じように生活するべく努力することです。人の見分け方も、服装や声、体格などから判断できるようになれば、顔を見なくても分かる、という方もいるそうです。」


 その日から数日後、私は退院し日常に帰ってきた。退院のお祝いに食べに行ったステーキはとても美味しく口の中に広がるジューシーな油と特製赤ワインバターソースが絶品だった。だが一緒に食事をしていた両親の顔は相変わらず、そこになかった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇


 学校生活に戻ってしばらくは大変だったが、周りの友達や先生が優しく気遣いをしてくれて、1ヶ月ほどで元の生活に戻った。人の顔を認識できないのも、皆理解をしてくれて、共感してくれた人もいた。


 恵利はお医者さんの話を思い出す。


「ちなみに恵利さんの場合は後天性ですが、意外と先天性の方は多く、調べによると全人口の2%ほどがなんらかの先天性相貌失認せんてんせいそうぼうしつにんであるとされています。よく人の顔が覚えにくいといった方もいますからね。そういう方々は他の部分を使い補っていることが多いので、案外自分が軽度の相貌失認であることに気づかず生活している人も多いのですよ。」


 多くの人が、何かしらの難しさを抱えて生活している。私はそんなことに気づきもせず今まで生きてきたのだなと思った。


 物覚えの悪い人、名前を覚えられない人、人の顔を覚えられない人、多種多様、十人十色の違いを持った人たちがいる。私はそんな人達を……少しだけ馬鹿にしていた部分もあったかもしれない。


 自分がなってみて初めて分かる。人と違う部分があっても、劣る部分があっても、存在そのものが見下される対象というわけではない。大切なのはどれだけ懸命に生きているか、前に進んでいるかであろう。


 私は、顔が認識できなくなってよかったとは思えない。だけど、周りの人の『違い』『多様性』そして『優しさ』を知ることが出来たことには感謝しているし、ラッキーだったと思う。


 死ぬまで自分を自分で見下し、低く評価する人は多い。だが、自分を評価できるのは他人だけではない。自分に最高の評価をつける事ができるのは自分自身なのだから。


 だから……私は今日も前を向いて歩こうと思う。


 行き交う顔なしさん達とすれ違いながら。


 彼らの違いを見定めながら。


 私は、私の道を歩いていく。



 顔が消えた日(完)





 ※この物語はフィクションです。

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顔が消えた日 火ノ島_翔 @Hinoshima_SHO

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