イニシエーション
夜の通学路を歩くエリスは、いきなり走り出したかと思うと街灯の下で足を止めた。そこで広げた手のひらに、雪が落ちてくる。
雪が降るということは、この夜は氷点下に冷え込みでいるということだ。そんな寒い夜に通学路を歩いているものは吸血鬼とユウキだけだ。
コンビニのおでんで補給した温もりもすでに失われている。
通学路に立つ街灯の数はまばらで、なんだか心細さが募ってくる。
自分のことだけならまだいいのだが、エリスはオレに手袋を貸している。そのため外気や雪の冷たさがダイレクトにその手を冷やしていくだろう。
風邪でもひかなければいいのだが。
というか、大事な妹に風邪をひかせないために、オレは兄として決断すべきではないか?
今日はもう家に帰ろう。そんな決断を。
「なあ……ポータルに行くにしても、今日はタイミングが悪くないか? 寒いし夜道が暗すぎる」
「ふむ。もう出てきたようだな」
街灯の光を浴びるエリスは、雪を受け止める手のひらを閉じてパーカーのポケットに入れた。ユウキは聞いた。
「『出てきた』って、何がだよ」
「心理的抵抗だ。この世を超えることは、本当に恐ろしいことだからな」
エリスは説明した。
一般人がこの世を超えることを目的としてポータルに近づくと、意識的、無意識的なさまざまな抵抗に遭遇する。
なぜならこの世を超えるとは、一度死んで生まれ変わることだからである。それは自らを保存しようとする自己にとっては、なんとしても避けたい恐るべきことである。
だから人は、無意識から湧き上がる心理的抵抗に阻まれ、異世界へと続くポータルへと辿り着くことはどうしてもできない。
そして人は狭い世界で一生を過ごす。
「それもいいぞ。ユウキがその生をここで終えたいなら付き合うぞ。また催眠もかけてやろう」
吸血鬼は期待に満ちた目でユウキを見つめた。ユウキは目をそらして呟いた。
「いや……それはダメだ。よく考えてみたら、オレは異世界にある闇の塔を崩壊から防がないと、この肉体も崩壊して死ぬんだ」
「ん。それは多分もう平気だぞ。そんなことではユウキは死なない」
「なにっ?」
「本当だぞ。なぜなら私はかなり高位の吸血鬼なんだ。そんな私に直々に吸血されたユウキは、吸血鬼因子によって肉体が相当に強化されたはずだぞ」
「つまり……」
「たとえ生命力が大幅に減ったとしてもユウキは死なない。それでもユウキに危険が迫るなら、私たちが守ってやる。私の部のメンバーには強力な探索者や天使がいるんだ。あの子たちならきっとユウキを悪い影響から守ってくれるぞ」
天使と言う言葉を聞き、ユウキの脳裏に、文化祭でハッピを着て同人誌を売りつけてきた金髪の女子高生の姿がよぎった。
思い返してみれば、あいつからはルフローンレベルの強烈なエネルギーの放射が感じられた。
(たぶんあいつが『天使』だろう。あいつならば確かに俺を死の運命から救ってくれるかもしれない)
ユウキは、ポータルに向かう足を完全に止めて実家に引き返し、余生をエリスと過ごすという選択肢を真剣に考慮し始めた。
エリスは期待に満ちた眼差しを再度こちらに向けた。
「どうだ? 私なりに優しくするぞ」
ユウキはゴクリと生唾を飲み込んだ。
(い、いいじゃないか……オレはエリスとは兄妹としてしっくりくる。これは互いの相性がいいことの証拠だ。そんな彼女と実家で何不自由なく過ごすことは人間として最上の幸せと言っていい。だが……)
「すまん。やっぱりオレ、行かなきゃ……」
「うん……わかってる。異世界の衆生を助けるために行くんだな」
エリスは寂しそうに微笑んだ。
いや、単にナンパしたいだけなんだが……という言葉をぐっと飲み込むと、ユウキは足を前に踏み出した。
*
しかし暗く人気のない通学路を進む一歩ごとに、雪はどんどん吹雪へと近づいていき、寒さは骨身に染み、心理的抵抗はますます抵抗し難いレベルに強まってきた。
雪の積もるアスファルトの上を歩く足取りもおぼつかなくなってきた。何度も転びそうになり、その度にエリスに助けられる。
エリスはユウキに肩を貸しながら、また期待に満ちた目を向けてきた。
「なあユウキ……もう無理じゃないか? これは本当にもう、ポータルに行くのは諦めた方がいいかもしれないぞ」
「…………」
「真面目な話、よくよく考えてみたらユウキは一般人なんだ。私たち探索者とは違うんだ。心理的抵抗に阻まれて元の世界に留まることは、何も恥ずかしいことじゃないんだぞ」
「う……」
そのように諭されると、それもそうかもしれないと思ってしまう。
ユウキの弱気な様子を見て、エリスはさらに期待に満ちた赤い瞳をこちらに向けてきた。
催眠力も込められているのか、その視線を向けられるたびに、ユウキの足取りは重くなっていく。
それに加え、なかなか日常生活では味わうことのない謎の恐怖までもがユウキを襲い始めた。
一歩、前進するごとに見慣れた世界から自分が遠ざかり、異世界へと近づいてく……それは生きながら三途の川を越えることに似ていると感じられた。
それでもガクガクと足を震わせながら何とか前進を続けていると、エリスに手を引っ張られた。
「ユウキ……! 顔が真っ青だぞ! もう無理だ、引き返そう」
だがユウキはエリスのひっぱり力に抵抗してその場に留まると、足を震わせながらも深呼吸した。
「いや……これはただのコズミックホラーだ。これなら対処できる」
ユウキは各種のスキルを発動して自らの心を調整すると、エリスの赤い瞳を直視した。
「これで平気だ……よし、行こうぜ」
「う、うん」
まもなく二人は学校に到着した。その頃にはエリスもユウキの断固たる前進を何をどうしても阻めないと悟ったのか、かなり協力的になっていた。
校門にたどり着いたエリスは柵に飛びつき、それを乗り越えようとした。だが腕の力が足りないのか、うまく体を持ち上げることができない。
腕をぷるぷると震わせて頑張るエリスをユウキは下から押した。しかし握力を完全に失ったらしいエリスは、雪の積もる地面に落下した。
「いてて……こうなったら奥の手を使うぞ」
エリスは地面に打った尻を撫でながら立ち上がると、ふいに赤い瞳を輝かせた。瞬間、いきなり重力を無視するジャンプを見せ、彼女はユウキの視界から一瞬にして消えた。
慌ててエリスの姿を探すと、門の上で腰に手を当てて立っている。
「ま、まじかよ。都市の移動術、パルクールを極めたやつでも今の動きはできないんじゃないか」
「なんということはないぞ。吸血鬼としてのフィジカルな力を解放しただけだからな」
そう言いつつもエリスは若干、得意げな表情を浮かべている。彼女は高みからユウキに手を差し伸べると、その細い腕からは想像もつかない超物理的な力によってユウキを引っ張り上げ、門の反対側、学校の敷地に下ろした
ついでエリスも門の上から飛び降りると、先導してユウキを暗闇の中に導いた。
「あっちだ。旧校舎の方だぞ」
そう言われても、学校の敷地に街灯は灯っていない。夜空では刻一刻と強まっていく吹雪が音を立てて渦巻いている。
エリスに手を引かれて闇の中を彷徨ううちに、やがてユウキは上も下もない無重力空間を漂っている気分になってきた。
吹雪の冷たさによって自己と外界を隔てる肌の感覚までもが麻痺し、自らが闇の中に溶け出していくよう感じられた。
ふつふつとパニックの予兆が心の中から湧いてくる。だが同時に、このような存在の足場が失われた感覚は、単なるコズミックホラーの一種に過ぎないともわかっていた。
ユウキはほぼ自動的に各種スキルを発動して思考と感情を安定させると、この暗闇に満ちる吹雪に逆らわずその流れに身を任せた。
やがてエリスは足を止めた。
「ついたぞ。ここが旧校舎の部室棟だ」
エリスは一瞬スマホのライトを付けて、部室棟を照らした。だが用務員などに見つかることを恐れてか、すぐにライトを消した。
その一瞬の明かりによって、古びた横長の木造建築の姿がユウキの瞼に焼きついた。枯れた蔦の絡まる壁に一定の間隔で窓が開いているようだが……。
「どこから入るんだ? 出入り口は見えなかったぞ」
「うん。出入り口はない。部室棟は旧校舎と廊下で繋がっているだけなんだ」
「ということは、この部室棟に入るにはまず旧校舎に入らないといけないんじゃないか?」
「うん。そのためには新校舎から連絡口を通る必要があるぞ」
「ということは、正面の玄関から新校舎に入らないといけないんじゃないか?」
「うん。だけど正面玄関には鍵がかかって入れないぞ」
「……家に帰るか」
「ふふふ、冗談だぞ。ここが開くんだなあ」
エリスは悪戯っぽく笑うと、部室棟の四つ目の窓に手を掛け、ガラリと音を立ててそれを開けた。
そして何度も繰り返しているらしい慣れた身のこなしで、真っ暗な部室内にその身を滑り込ませていった。
ユウキはしばしためらったのち、意を決してエリスのあとを追った。
「うっ」
窓枠に足を引っ掛けて背中から床に落下してしまう。だが不思議と痛みは感じない。
そのときふいに暗闇の中にポツリと明かりが灯った。
その明かりによって、ユウキは自分が今、この部屋の窓際に敷かれた体育マットに横になっていることに気づいた。
「……ここは?」
マットから体を起こして見ると、エリスは手にLEDランタンを持っていた。
エリスはそのランタンを、部屋の中央に置かれている縦長の机に置くと答えた。
「ここは部室棟の四号室……私の部室。ポータルはこの部屋のすぐ隣、五号室にあるぞ」
机に置かれたランタンの光がユウキを貫く。
暗闇の中を長く歩いてきたからか、その眩しさに涙が滲む。
ユウキは目を擦った。
エリスは棚からティーバッグと電気ポットを取り出すと、何かの茶を淹れ始めた。
家で嗅いだことのない異様なまでに甘美な香りが鼻をくすぐる。その香りにうっとりとしつつも、ランタンが眩しくてたまらない。
「そのランタン、少し光量は落とせないのか?」
ユウキは眩しい光から顔を背けてそう言った。
しかしランタンから距離を取ることはできそうにない。ここまで長い道を歩いてきた疲れが一気に出たのか、腰が抜けたように身動きが取れない。
湯気の立つマグカップを持って近づいてきたエリスは、ふいに顔を近づけユウキの瞳孔を覗き込んできた。
「ふむ。なるほど……そういうことか……始まっているようだな」
「な、何がだ?」
「始まっているのはイニシエーションだぞ」
「イニシエーション?」
「参入の儀式……ユウキがポータルを自由に使えるようになるには、『探索者』にならなきゃいけない。そのための儀式をする必要があるみたいなんだ」
「『みたい』って……あやふやな話だな。だいたい儀式ってのは前もって段取りとか、手順とかが決まってるものじゃないのか?」
「『探索者』への参入儀式は、宇宙の流れに押されて、自然発生するものなんだ。さて……今回の儀式では、ユウキは光と闇に精通することになりそうだぞ」
「光と闇……そんなもの、ただの一般人のオレにはどっちも無縁のものだが」
「ううん、そんなことないぞ。ユウキはもう十分に闇との繋がりを持っている」
ユウキはふと右手の人差し指にはめた指輪に目をやった。シンプルな意匠のその指輪……それは闇の塔との深い繋がりを示している。
エリスはうなずくと言った。
「でも闇との繋がりだけではポータルを自由に使えるようにはならないんだ。光とも繋がらないと」
「どこにあるんだ? 光との繋がりなんて」
「そこにあるぞ」
エリスはユウキの胸を指差した。
しかしエリスが指差したオレの胸の中にあるのはただの物理的な心臓だ。それはただ脈打って血液を循環させるだけだ。
血は赤黒く、どちらかと言えば闇に近しい属性のものに感じられる……。
そんな懸念に構わず、エリスはマグカップを渡してきた。
「まずはこれを飲むといいぞ」
「……寒くて冷え切ってるからな、助かる」
マグカップを受け取ったユウキは、ふうふうと冷ますのもほどほどに熱い液体に口をつけた。瞬間、エリスが大声を上げた。
「しまった!」
「な、なんだ?」
「ええと……ユウキは世界から世界へと駆ける探索者になることを望むか? 望むならその聖杯から命の水を飲んでほしい」
「おいおい、もう飲んじゃったぞ」
「飲んだということは、ユウキは探索者になるということで、それでいいな」
「そんな適当でいいのかよ!」
「始めるぞ、参入の儀式」
エリスはそそくさと部室の窓を閉じ、厚いカーテンも閉じ、机の上のLEDランタンを消した。
部屋が再び真っ暗になり、エリスの輪郭も自分の手のひらも認識できない完全なる暗闇がユウキを包んだ。
だが闇の中で何かが暖かな光を発している。
ユウキはその輝いているものが見つめた。それは自らの胸の内側で輝いている魂の光だった。
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