第79話 修行
「エッチなものへの耐性を得るために私の肉体を使うといい」
「ば、バカなことを言うなよ!」
実家での夜……二人きりの居間で妹が発した提案を、ユウキはノータイムで拒絶した。
「は、はは……人を驚かせる冗談はほどほどにしてくれ。お兄ちゃんはテレビを見ないといけないからな。ほのぼのする動物のテレビを……」
ユウキはリビングのソファに座ると、リモコンを操作しようとした。
だが指が震えておりうまく電源がつかない。
妹はソファの端に腰を下ろすと言った。
「冷静に考えてほしい。ユウキのライフワークを前進させるためにはエッチなものに慣れるしかないんだぞ」
「そ、それはそうかもしれない。だが別にエリスの助けを借りなくても、オレ一人でなんとか……」
「うん。時間をかければユウキならなんとかすると思う。だけど、そんなに時間はかけていられないと聞いたぞ?」
「だ、だとしても……妹にそんな迷惑をかけられないに決まってるだろ!」
「別に迷惑なんてことはないぞ。他人のドロドロした欲望を向けられることは私にとってすごく望ましいことなんだぞ」
「ま、まじかよ……そんなことってあるのかよ……でもとにかくダメだったらダメだ! オレたちは兄妹だろう」
「ははは、なるほど。それならまた、妹という認知のフィルターを外してみるぞ」
妹は赤い瞳でユウキを覗き込むと静かに断言した。
「これから二時間、私とユウキは赤の他人だぞ」
「また催眠術の真似事か。そんなもの効くわけが……」
だがそこはかとなくエリスのことが見知らぬ少女のように見えてきた。
ソファで戦慄するユウキの隣に謎の少女エリスが座っている。
少女はわずかに顔を赤らめながら呟いた。
「まあまあ、落ち着いて私の話を聞いてほしい」
「…………」
「私の体を使ってエッチなものに慣れろとは言ったけど……別にいきなりそんなすごいことを最初から要求してる訳ではないんだ。私だって恥ずかしいんだぞ」
「そ、そうなのか……だが……だとしたら……一体、何をしようというんだ」
「百聞は一見にしかずだから、実際にやってみよう。それが早いと思うぞ。でもその前に……」
エリスはいったんソファから立ち上がると戸棚からポテトチップスの袋を持ってきて、それをローテーブルに広げた。
「友達の影響で最近こういうお菓子が最近好きなんだ。ユウキも食べるといいぞ」
「お、おう……」
何枚かポテトチップを摘んだが緊張で口の中が乾いて味はよくわからない。そんなユウキに構わず妹はエッチなものに耐性を得るための修行……その解説を始めた。
「さて……今日は初回ということで、まずはユウキの今のコンディションを探ってみるぞ。これでどうだ?」
「え、何が?」
「気づかないのか? 私はさっきまでソファの一番端に座っていたんだ。だけど今は五センチ、ユウキに近づいているんだ。どうだ、女性が接近しているぞ」
「ああ……なるほど……ちょっと待ってくれ」
ユウキはApple Watchの心拍計を確認した。
「安静時に比べてかなり心拍数が上がってきてるな。でもまだ警告が来るほどじゃない」
「よし。ではもう少し近づいてみるぞ」
エリスは腰を浮かせてさらに拳三つ分近づいてきた。
空気を通して少女の体温が伝わってくる距離だ。
「や、やばい。かなり心拍が上がってきた。具合も悪くなってきた……」
「おっと。これは近づきすぎだな。少し離れるぞ」
エリスは腰を浮かせて拳二つ分、遠ざかった。これによりユウキの心拍は落ち着き、肉体の不調も耐えられるレベルに軽減された。
エリスは自分のスマホにこの距離をメモすると言った。
「よし。ここで次に……テレビを見てほしい」
「テレビだと? 何を放送するつもりなんだ?」
「少しエッチなストリーミングビデオ。再生するぞ」
エリスはローテーブルに置かれていたFire TV Stickのリモコンを手に取ると、慣れた手つきで少しエッチなストリーミングビデオを再生した。
壁際のテレビモニターいっぱいに露わな肌が広がる。
「こっ、これは一体……」
「視覚情報による性的な刺激だぞ。私は残念ながらそんなに刺激的な体じゃないからな」
「いや……そんなことは……」
「いいんだ。視覚による刺激はこうやってアウトソーシングできるから問題ない。ほら、テレビを見て」
テレビモニターでは水着姿の女体が刺激的な姿勢を取っている。
「うっ……」
急激に気持ち悪くなったユウキは口に手を当ててうめいた。
「おっとすまない。刺激が強すぎたみたいだな」
エリスはリモコンを操作しテレビの明度と彩度を落とした。また、自分とユウキのソファ上における肉体の距離も調整した。
「どうだ?」
「はあ、はあ……このぐらいなら……なんとか我慢できる」
「いいぞ。ではこの状態をキープしたまま、肉体を落ちつかせる練習をしてみてくれ」
「わ、わかった……」
ユウキは目を閉じて深呼吸しようとした。だがエリスに目を開けるよう指示された。
ユウキは目を開け、前方の少しエッチな動画を直視した。そして隣に座る謎の少女の肉体が発する実在感を肌で感じた。
その状態でユウキは深呼吸などの各種の精神的な技を発動し、性的な刺激への順応の度合いを高めていった。
*
翌朝……ユウキはかなりの気まずさを感じながら階段を降りた。
妹は先に居間に降りてきていた。そのパジャマ姿になんとか声をかける。
「お、おはようエリス」
「ああ、おはようユウキ」
「い、いい天気だな」
「うん。すぐにご飯を作るぞ」
妹はテキパキと二人分の朝ごはんと弁当を作ると、シャワーを浴びて身支度して登校していった。
「…………」
昨日、兄妹でエッチなビデオを観るという背徳的な行為をしてしまったわけだが……さきほどの様子を見る限り、妹としては特に何も思うところはないようである。
そういうことならオレもそんなに気にすることはないのかもしれない。
ユウキは気持ちを切り替えると、バスに乗って駅前に出かけた。
本日の駅前広場には、昨日よりもさらに多くの魅力的な異性の姿があった。ユウキはときめきを感じた。
昨日であればそのときめきによって即座に過呼吸が生じたものだが……今日は呼吸が浅くなる程度だ。
Apple Watchを確認したが、心拍数もそんなに高まっていない。
どうやら本当に、昨夜の妹との修行が効いているようである。
「よし。これなら十分な時間、駅前に留まる事ができそうだな。やるか……」
ユウキは駅前広場の雑踏で呼吸を整え、街の空気に慣れるというナンパ修行を始めた。
呼吸を整えつつ、機会があるたびに人にちょっとした親切もした。
道案内や、落とし物拾い、などなど。
また新たな親切として、駅前のビルを出入りする際、後ろから来る人のためにドアを開けて待ってあげるという行為を覚えた。
それらの親切行為をするごとに、ユウキは胸にほっこりとした気持ちを得た。
その暖かい気持ちを得るごとに、自らとこの街との接続率が高まっていくのを感じた。
数日前まではよそよそしく、恐怖を感じる場であったこの街が、なんとなく自分の居場所……まるで実家の子供部屋の延長のように感じられてきた。
目の前を歩く人々に対しても、そこはかとない親しみを感じた。
通行人と目が合う回数も増えてきた。
やがて日は暮れた。
夕暮れの街で赤い日差しを浴びるユウキ目の前を、一人の異性が通り過ぎた。
一瞬、目が合った。
名も知らぬ、おそらく二度とこの人生で会うこともないだろう彼女はユウキと目を合わせ、一瞬微笑んだように見えた。
その繋がりとも呼べぬかすかな繋がりの中に、永遠があった。
その謎めいた洞察はすぐに消えて、それが意味していたことをユウキはすぐに忘れた。彼女は人の波の中に姿を消した。
だが訳のわからない高揚感はわずかにユウキの中に熱を持って残り続けた。
この気持ちを誰かに共有したい。
帰りがけにユウキは書店に寄って、エリスへのお土産としてホラー漫画を買った。
ユウキは長年、ネットの暗部に浸かっていたため闇を宿したコンテンツへの嗅覚が発展していた。
エリスの好みと思われる酷い内容の少女コミックを見つけることは容易いことだった。
バスに乗って実家に戻り、夕食時に妹にコミックを渡した。
ユウキはまだ妹に対して気まずさとしたものを感じたが、プレゼントを渡すとその空気は和らいだように感じた。
エプロンで手を拭いた妹はコミックをパラパラとめくると赤い瞳を輝かせた。
「なっ、なんて面白そうな漫画なんだ! とても嬉しいぞ! でもいいのかユウキ? お金は少ないんだろう?」
「オレは今日はかなりの進歩を街で感じることができた。そのお礼だ」
「ということは……昨夜の特訓が効いていたんだな!」
「ああ」
「じゃあ……今日もするか?」
「い、いいのか?」
「私はユウキの役に立ちたいんだ」
「…………」
ユウキはしばし迷ったのち妹に頭を下げた。
食後、エリスはテキパキと洗い物を片付けると、風呂に入って寝る支度を整えた。
それからユウキをソファに座らせ、前面のテレビにビデオを流した。
そして自身もソファに座り、昨日よりも拳一つ分近い距離に近づいてきた。シャンプーの香りがユウキの鼻をくすぐった。
「いいか、再生するぞ?」
パジャマ姿の妹はリモコンをテレビに向けた。
ユウキはうなずいた。
その修行は今夜も夜遅くまで続いていった。
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