第47話 悪魔

 一呼吸ごとに強まる『オークの催淫剤』の力にユウキは恐怖した。


 先ほどまでの余裕をかなぐり捨てて、ユウキは叫んだ。


「解毒剤をくれ!」


 ラゾナは青い薬剤の入った小瓶をユウキに渡しかけた。だが何を思ったかその手を途中で止めた。


「ご、ごめんなさい……やっぱり、もう少しだけ我慢して」


「なんでだ? もう限界だぞ!」


「もうすぐ催淫剤の効果がピークに達するのよ。そのデータをモニタリングできれば解毒剤の開発が大いに進展するわ」


「だっ、だがこのままではオレは……」


「被験者になってくれたユウキの気持ち、無駄にはしないわ」


「で、でも、オレはもう……本当にもう……」


 ユウキはさらに足腰をもぞもぞさせた。


 しかしラゾナは目を閉じてモニタリングに集中するばかりである。


「す、すごい……快楽にまつわる器官に凄まじい量のエネルギーが集まっているわ!」


 一秒ごとに『オークの催淫薬』の効果がユウキの中で倍々に増していく。


 アルコールの酩酊などとは違い意識はクリアなまま、エッチなことがしたいという欲望だけが高まっていく。


 このままではその気持ちが行動になって表に出てしまう。


 だがそれだけは絶対に避けなければならない。


 人様の家のソファで異常行動するわけにはいかない……。


 そう歯を食いしばった瞬間、『オークの催淫剤』の効果がピークに達し、ユウキの理性は折れた。


 ユウキは目に涙を溜めながら異常行動を始めた。


「ゆ、ユウキ……もういいわ。解毒剤を飲んでもいいわよ……ピークのデータは取れたから」


 しかしユウキは目に涙を溜めながら異常行動を続けることしかできなかった。


 ユウキは異常行動を続けながら恥ずかしさのあまり泣き出してしまった。


「ひぐ……えぐっ……」


 ラゾナはユウキに解毒剤を飲ませた。


「大丈夫よ。何もかも薬のせい。恥ずかしがらないで」


 そしてラゾナはユウキを抱きしめ慰めたがそれにより欲求不満が再燃した。


 ユウキは感情的なパニックに陥り、訳が分からなくなって涙を流しながら、人様の家のソファでさらにもう一段上の異常行動を取りはじめた。


 その手を押さえながらラゾナが言った。


「ごめんなさいね……途中から私、データを取ることに集中して、ユウキが何をしても止めなかったわ」


「ひぐっ……お、オレ……」


「いいのよ……ユウキの協力のおかげで未来の被害者を救うことができるんだから」


「おっ、オレも救ってくれ……解毒剤を飲んだのに、全然楽にならないぞ」


「そのようね。この解毒剤では催淫薬を完全に分解することはできないようよ」


「そっ、そんな……」


 オレはこのまま脳が破壊されるレベルの欲求不満を感じながら人様のお宅で異常行動を取り続けてしまう運命なのか……。


「ううん、安心して。私にできるのはこんなことしかないけど……」


 ラゾナはソファ上で数段上の異常行動を始めそうになっているユウキの手に自らの手を重ねた。


「私ができるだけ楽にしてあげるわ」


「え、ええっ?」


「うまくできるかどうかわからないけど……ユウキだけ恥ずかしい目には合わせないわ」


 だがそのときだった。


 快楽の予感にとろけつつあるユウキの脳に天啓が閃いた。


 そ、そうだ……。


 はるか昔、オレは保健体育で習った。


 性欲は昇華できるということを、オレは習った……!


 その気づきがユウキにセルフコントロールの感覚を取り戻させた。


 焦点を失っていたユウキの瞳がわずかに光を取り戻した。


「そうだ……オレは薬なんかに負けない……オレはこの性欲を芸術的な方面に向けて昇華してやる!」


 そういうわけでユウキは強烈なムラムラを切なさに昇華して楽曲に込める作業を始めた。


「ちょ、ちょっとユウキ……平気なの?」


「うぐっ……平気じゃない。だが、やらなきゃいけないことを思い出してな」


 目に涙を浮かばせつつもiPhoneに作曲アプリを立ち上げ、そこに熱を持った己の性欲を流しこむかのように創作作業する。


 一方で隣に座るラゾナはなぜか顔を赤らめもじもじと身じろぎしていた。


 だがしばらくすると彼女も石板に何かのメモを取り始めた。


 やがてユウキの楽曲アップデート作業は終わった。


 性欲もコントロール可能なレベルに落ち着いていた。

 

 隣のラゾナは大きく深呼吸すると照れた笑みを浮かべた。


「ふう……さっきはごめんなさいね。ユウキの内的感覚をモニタリングすることで、間接的に私まで催淫作用に飲まれていたのかもしれないわ」


「そ、そうか……」


「でももう平気よ」


「…………」


「ユウキが催淫剤の力に抵抗してくれたおかげで、私の頭もクリアになって、新しい処方を完成させられたわ。さあて、仕事仕事……!」


 ラゾナは立ち上がって背を向けるとスカートの皺を整えた。


 ここに至りユウキはさきほどラゾナが自分にしてくれようとしたことの真意を悟り、それを拒否してしまったことに強い後悔を覚えた。


 バカかオレは……!


 なんであんなタイミングでオレは作曲作業なんか初めてしまったのか。


 あのままラゾナと共にこのソファ上で『オークの催淫薬』に溺れてしまえばよかったじゃないか!


 しかし後の祭りである。


 ラゾナはすでに仕事モードに入っている。


「くっ……」


 求めてやまない宝を自らの手で放棄してしまったことを悔やみつつ、ユウキはラゾナ宅を後にしようとした。


 その丸まった背に声がかけられる。


「協力、ありがとう。いつも頼りになるわね。さっそく新レシピで解毒剤、作ってみるわ」


「おう……がんばれ」


「それで……新しい解毒剤が完成したら……お願いがあるんだけど……」


「ん?」


 振り返るとラゾナが顔を赤らめてもじもじしていた。


「よかったら……また実験台になってくれない?」


 ユウキはゴクリと生唾を飲み込んでうなずくと、ラゾナ宅を後にした。


 *


 アップデートした楽曲をイヤホンで聴きながら星歌亭に向かう。


 楽曲には『女帝』から得た大人の女性の魅力と、高まった性欲が昇華されたものらしい謎の勢いが備わっていた。


 だがまだ足りない。


 エクシーラに勝つためには、もう一押し、何かが足りない。


 ユウキは体を火照らせながら、スラムを歩きつつ考えた。


 オレに足りないもの……オレに必要なもの……それは一体、なんなのか?


 しかし頭がぼうっとして思考が定まらない。


「そうか……まだ催淫薬の効果が抜けてないんだ」


 エッチなことがしたくて仕方がない。


 その想いが外部に放射されているのかもしれない。今日はやけに通りすがりの男の視線を感じる。


 労働者、少年、学生、お年寄り、みんなの視線を痛いほど感じる。


「……怖い」


 思わずユウキはうつむいた。


 うつむいていると心は内向きに閉じていった。


 何をどうしてもエクシーラには勝てない。そう思った。


 とりあえず塔の自室に帰って、この体の火照りが沈まるまで大人しく寝ていよう。


 そうだ、オレはもう十分に頑張った。


 人間には身の程というものがあるのだ。


 すでにオレは自分の身の程の限界まで頑張った。


 これ以上の頑張りは原理上、不可能なんだ。


「…………」


 しかしそんなことを考えながらスラムの路地をうつむいて歩いていると、これまでのナンパの練習によって得た『顔上げ』の習慣が自動的に発動されてしまった。


 気づけばユウキは各種のスキルによって自らの心を鼓舞し、顔を上げ、男たちの情欲に満ちた視線を真っ直ぐに受け止めていた。


「…………」


 自らの体に男たちの視線が突き刺さる。


 そのじっとりと熱く湿ったエネルギーを全身に浴びながら、ユウキは考えた。


 さっきオレは麻薬に心を支配された。


 だが通りすがりのこの男たちにとっては、このオレこそが心を奪う麻薬なんだ。


 この麻薬の力……人の心を奪い、操る悪魔的な力……これを、楽曲を高めるために利用できないか?


 もしかしたらそれこそがエクシーラに勝つために必要な最後の一ピースなのではないか。


「…………」


 男たちの視線を浴びながらユウキは早足にスラムの路地を通り抜け、星歌亭の納屋に向かった。


 納屋の奥のゴザで寝ているルフローンを揺さぶる。


「おい」


「ん? どうした小僧」ゴザの上から寝ぼけ眼が向けられる。


「もう一個くれ、人格テンプレートを。……人格テンプレート、『悪魔』をオレにくれ!」

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