第18話 Apple Watch

 エクシーラが去った夜、Apple Watchが実家に届いたとの知らせがiPhoneに入った。


 妹が無事に受け取ってくれたようだ。


 ゾンゲイルに頼んでミニボディを動かしてもらい、ユウキの実家の自室からApple Watchの箱を闇の塔に持ってきてもらう。


 Apple Watchの細長い箱はギリギリでポータルを潜り抜けた。


「なあに、それ?」


「いいだろ」


「いい」


 ゾンゲイルが興味深く見守る中、ユウキはiPhoneとApple Watchをペアリングした。


 *


 翌朝、ユウキは塔の周りを走ってみることにした。


 Apple Watchにはアクティビティという運動計がついており、1日に必要な運動量の目安を教えてくれるのだ。


 朝のうちに運動量を稼ぎ、アクティビティの円グラフを進めておきたい。


 その前に顔を洗っている魔術師に声をかける。


「そういえばシオン、お前も運動したいとか言ってたよな」


 いつも夜遅くまで魔術関係の調べ物をしているらしく、朝のシオンはだいたい眠そうにしている。


「えっ? 僕、そんなこと言ったかな……」


「一緒に走ろうぜ」


「ふふっ。なんのためにだい?」


「健康にいいぞ。体力がつく」


「それは副次的な効果だね。走ること、それ自体の目的を知りたいんだ、僕は。どんな行為にもそれ自体に目的が内包されていなければならない、それが魔術師としての……」


「いいから行こうぜ。何か動きやすい服を着てきてくれ」


「わ、わかったよ。仕方がないなあ……」


 正門の前でしばらく待っていると、シオンはいつも寝巻きに使っているという短パン、Tシャツ状の服を着て、爽やかな朝日の下に姿を現した。


 最近はたまに土木作業を手伝うようになったとはいえ、だいたいは塔にこもっているためか肌が青白い。


 彼は日に日に女性らしさが高まっており、露出度の高いその格好には惹きつけられるものを感じざるを得ない。


 だが今はそんなことを考えている場合ではない。


 ユウキはスキル『集中』を発動し、シオンのかわいさから目の前の運動へと意識を向けた。


「行くぞ」走り出す。


「ちょ、ちょっと待って! どこに行くんだい?」


「あっちだ」とりあえず塔の裏手を目指して走る。


 塔まわりの雑草はゾンゲイルによって綺麗に刈り込まれている。


 だが、たまに『樹木の妖魔』の残骸や、その攻撃によって塔から剥がれ落ちた石材が転がっている。


「足元に気をつけろよ」


 と、振り向いて注意した瞬間、シオンは地面の石ころにつまづいた。


 ユウキは慌てて駆け寄り、なんとか抱きとめた。


「あっぶな」


「ふふっ……見ての通り……僕には才能がないんだよ。運動のね」

 

「確かに」


「手を離して……やっぱり才能のないことに時間を使っている暇はないよ。僕は魔術をやってるべきなんだ」


 目を逸らしてそう呟くシオンからは、人が心を閉ざすときの音が聞こえてきそうである。


 とりあえず暴言を吐いておく。


「まったく、繊細なやつだぜ。根性のない奴に限って『才能』って言葉に逃げるんだよな」


「な、なんだい! 僕に運動の才能がないことは誰の目にも明らかなことじゃないか!」


「まあ確かに……」


「ふふっ、だけど僕には限りない魔術の才能があるんだ……それを生かすべきだとは思わないのかい? 人の時間もエネルギーも有限なんだ」


「その通りかもしれないが……自分がうまくできることだけやってても飽きるだろ。たまには苦手なこともやってみろよ」


「ふふっ。僕はね、あらゆる行動に意味が欲しいんだ。朝に僕が塔の周りを走る。そこに意味が見出せないなら、それは無駄でしかないんだよ」


 ユウキはApple Watchのアクティビティのリングを確認した。まだぜんぜん進んでいない。


「まあまあ。とりあえず一周だけしようぜ」


「わ、わかったよ……ユウキ君がそこまで言うんなら」


 シオンはよたよたと走り出した。


 すぐに顎が上がり息が荒くなる。ちょっとした石ころや瓦礫に足を引っ掛けてすぐに転びそうになる。


 その隣を並走し、転びそうになるのを助けているうちに、だんだんユウキは感動を覚えてきた。


「そんなに体力がないのに……よく頑張ってるな」


「はあ、はあ……ほんとだよ。僕は、本来は、直接戦闘向きじゃないんだ……なのに、最近は、走ったり、体を動かしたりすることがすごく多くて……はあ、はあ……筋肉痛のせいで思考力が落ちてる気がするよ……はあ、はあ……」


 そんな愚痴を吐きながらも、ついにシオンは塔の周りを一周した。


 ユウキはApple Watchのアクティビティのリングを確認した。4分の1ほど進んでいる。


「まあこんなところか……」


「はあ、はあ、はあ……」


 汗だくのシオンは膝に手を当てて荒い息を吐いている。


 ユウキはスキル『ねぎらい』を発動した。


「よく頑張ったぞ。さすが最強の魔術師。なかなか根性あるじゃないか」


「そ、そうかな? はあ、はあ……」


「また明日も走ろう」


「はあ、はあ……わかったよ……魔術師と肉体的運動の関係性について、もう少し文献を調べておくよ。きっとエグゼドスが何か書き残しているはずだからね……はあ、はあ」


「よろしく頼む」


 ユウキとしても決して運動は好きではない。だがこのApple Watchと、一緒にトレーニングしてくれる仲間がいれば、それなりに続けられそうな気がした。


 *

 

 走ったあとなのであまり食欲はわかなかったが、なんとか朝食を胃に収め、そののちにソーラルに向かい、バイト前のナンパ活動をする。


「…………」


 最近、気を散らされる出来事が多くあり、なかなかナンパに本腰を入れることができなかった。


 それはよくない傾向である。


 言ってみればナンパとは遊びであり、娯楽であり、生活の中になくても良い贅沢品のようなものである。


 だがオレは遊ぶために生きてるのだ。


 その真理を忘れずに、一回一回のナンパの機会を大切にしてゆきたい。


「…………」


 などと言う哲学的なことをユウキは噴水広場の噴水の縁で考えた。


 そして今朝のナンパへのモチベーションを高めようとした。


 だがこの朝、久しぶりのナンパへの緊張をどうしても打破できない。


「…………」


 ナンパとは一種のスポーツのようなものであり、それには肉体と精神の絶妙なバランスが必要なのである。


 その活動において、いたずらに思考を働かせると、肉体と精神のバランスが崩れ、ただ頭の中で思考のみがぐるぐると回り続け、体はまったく動かなくなってしまう。


 それはナンパするにあたり最も避けるべき状態であったが、避け難くこれまでに何度もユウキを襲った状態である。


 ユウキはその状態を『石化』と名付けていた。


 一度、『石化』が生じてしまうと、もう並大抵のことでは声をかけることができなくなる。


 意識は自分の内側でただぐるぐると回り続ける。


 その自意識過剰な思考のループから抜け出し、外界にいる魅力的な存在たちに体を動かして声をかけることはもはや不可能である。


 ユウキは噴水広場で脂汗を流しながら、『石化』を解くことができぬままただ気力を消耗し続けた。


 そんな『石化』状態のユウキに、さらに『自責の念』や『自己疑念』などの状態異常が付与される。


「ううう……」


 この世界に来て、あれこれ色々あったが、いまだにオレは声かけひとつ安定的にできない。


 結局オレはぜんぜん成長してない。


 そんな自己否定が頭の中を駆け巡る。


「…………」


 しかしその一方で、ユウキはこれが一時的な状態異常であることも、頭の片隅で理解していた。


『石化』も『自責の念』も『自己疑念』も、何かのはずみでオレに一時的に付与されている状態異常に過ぎない。


 何かのはずみで付与されたこの状態異常は、いずれ何かのはずみで解除される。


 そのときを待つのだ。


 ユウキはスキル『粘り』と『我慢』を発動した。


 そう……いまだオレの手持ちのスキルでは状態異常をダイレクトに解除することはできない。


 だが苦しさに耐え、それを受け流し、心を整えるためのスキルならある。


「すう……はあ……」


 ユウキは『深呼吸』を発動した。そしてこの重苦しい局面が自動的に流れ去るのを待った。


 何もかもが時間の流れとともに移り変わっていく。


 何かのきっかけによって知らず知らずのうちに心に状態異常が付与されるのも人生ならば、何かのきっかけによって『石化』が解け、何もかもうまく流れ始めるようになるのもまた人生である。


 苦しい時はジタバタせずに深呼吸して節目が変わるのをただ待つのだ。


 たまに知り合いに肉を捧げたりしながら……。


「この焼肉串、一本ください」


「あいよ!」


 ふいにユウキは噴水の縁から立ち上がると、朝早くから営業を始めた出店から焼肉串を一本買った。


 それを喫茶店と宿屋の隙間で寝ているストリートチルドレンのところに持っていく。


 秋が深まり空気が肌寒くなっていくこの季節……ストリートチルドレンの少女は寝ている時間が少しずつ長くなっているようである。


 今日もルフローンはゴザに横になりながら焼き肉の串を受け取ると、寝ながらそれを頬張った。


 そして、ごっくんと飲み干してから、縦にスリットの入った瞳をユウキに向けた。


「いいぞ小僧……偉大なる存在に施しを欠かせぬ殊勝さ、気に入った。次は何か、余の肌にかけるものを持ってくるがよい」


「わ、わかった。だんだん寒くなってくるからな。それじゃ、ま、またな」


 例によって強烈なコズミックホラー感の漂うその路地から急いで遠ざかる。


 そしてまたユウキは噴水の縁に腰を下ろすと、iPhoneのリマインダーに『毛布を調達してルフローンに渡す』というToDoを作った。


「…………」


 だが依然としてナンパする気にはなれず、自己疑念は深まったままである。


 とりあえず深呼吸を続けよう。


 バイトまでの時間を、少しでもこの場で心安らかに過ごすことに集中しよう。


 そう思った。


 そのときだった。


 作業着のポケットの石板がふいに震えた。


 取り出して見るとそこにメッセージが表示されていた。


『こんにちは。ミルミルよ。『平等院ソーラル支部』がついにオープンしたわ。私が支部長を務めてるから、ぜひ見学しにきて!』


 そのメッセージの下に、平等院の売り文句らしきものが書かれている。


『平等院はこんな方をお待ちしています。

・魔力やアイテムに頼らない真の力を身に付けたい方

・体を動かして健康になりたい方

・護身術を学びたい方』


 さらにそのメッセージの下に地図が表示されている。


 どうやらここから少し歩いたところ、教会の裏手に『平等院ソーラル支部』があるらしい。


「…………」


 ユウキのスキル『流れに乗る』が自動発動された。


「よし、ちょっと見てくるか」


 ユウキは噴水の縁から立ち上がった。

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